酔った勢いの日記

忙しい状態があまり好きじゃなくて、理由は生きている実感がしないからだった。生きている実感とは僕にとって、自覚的であることだと思う。自覚的であるとは、意識的であるということだろう。忙しいと流されてしまう。自分の意志ではない流れに。自分の意志ってなんだっけ、状態はどうなっている、そういうことに自覚的でありたい。把握していたい。ハンドリングしたい。だからそれが見えなくなっていると、わけがわからなくなる。今自分が何をやっているのか、何を考えているのか、コントローラーが手元から離れてしまって、流れに任せて考え動いてしまっている。プレーヤーはどこかへ行ってしまった。

自分の行動記録を追ってみても、それはまるで他人のようであり、その奥で何を思い、何を考えているのか掴めない。おそらく何もないんだろう。流れに任せてただ揺らめいているだけだから、意志が働いていない。自分の意志はもっと別のところにあって、行動記録には載らない。行動を離れたところで置いてきぼりにされている。ずっと放ったらかしてきた。それが忙しいという状態だろう。煩わされている。生活することと、自我を保つこと、その二つを一本化するのは難しい。どちらかに煩わされると、どちらかを蔑ろにしてしまう。

そういうことを考えなくてもいい人や、一本化できる人もいるだろうが、僕の場合はそうではなく、生活と自我の二つを切り替えて同時並行に進めていく器用さが必要になる。忙しいというのは時間の占める割合の問題であり、1日のうち数時間でも生活に煩わされない自覚的な時間を持ちたい。今二つはバラバラになっている。数時間は何がしたいとか何をしなければいけないといった生活から外れて、再びハンドリングする側に割こう。自分の意志は、自我はどこにあるのか。思い出すように追いかけては探す。

生きていると、悔いのない時期が来る。もう別にいつ死んでもいいやって思うとき、それがいつからだったか忘れたが、ずっと続いていた。もし何かやり残したことがあったり、課題が見つかると、それを終えるまでひとまずの間はまた、生活ではなく意志が続く。自分にとってそれは何だっただろう。多分、自分だけの思想を築くとか、そいうことを若い頃に考えていた。過去というほど過去ではないが、3年前の日記にはこんなことを書いていた。

そんなことより僕は、本質を最も大事にしていた。筋を通すことに重きを置いていた。正しいか、間違っているか、そのどちらかだった。理にかなっていれば取り入れ、そうでなければ無視したかった。それ以外の無駄なこと全てに関わりたくなかった。楽しむため、人間関係を円滑にするため、お金のためとか仕事のためとか、そういった別の目的のためにつく嘘は詐欺であり、詐欺行為によって本質を掻き乱すのは下劣なことだと思っていた。

「本質」は一時期において口癖のようになっていた。essence、本質ってなんだろうか。この頃はまだ自我を保っていたのだろう。もう酔って何も考えられなくなった。こういうのがいけない。素面の状態で全部受けとめないと。クソ、全部どうでもいいな。生きつないでいくのに必要なのは生活なのだろう。でもそれとは真逆の何かを人は求めるもんなんじゃないか。