旅行者をタイプ別、ランク別に分類してみた

旅行を始めた当時、いわゆるバックパッカーに対しての憧れがあった。「深夜特急」や「何でも見てやろう」「アジアン・ジャパニーズ」を読んだ影響かもしれない。そして旅行を何度か繰り返すうちに、世界一周してきたようなバックパッカーたちに何人も会ってきた。彼らは旅行のこと「旅」と言う。僕はそれにすごく違和感があった。「旅行」ではなく「旅」。僕にとって旅行は飽くまで旅行であり、それ以上の何か特別な意味はなかった。「旅」という言葉には旅行ではない何かが含まれていた。それを感じたとき「バックパッカーは合わない」ということに気づいた。自分が求めている方向性とは違った。

ではいったい、自分の旅行の目的とはなんだろう。旅行者を目的別、ランク別に分類してみた。ランクの基準は難易度ということにしておこう。

  • ランクE.週末海外
  • ランクD.リゾーター
  • ランクC.いいね!収集家
  • ランクB.旅行ファン
  • ランクA.バックパッカー
  • ランクS.調査団
  • ランクS.冒険野郎
  • どのような旅行をするか
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ポスト宮﨑駿?邦画アニメのオススメは?

ちまたでは「君の名は。」がヒットしているようだが、僕はこの手の映画を見たことがない。この手の映画というのは曖昧だけど、つまり「オネアミスの翼」も「パプリカ」も「秒速5センチメートル」も「バケモノの子」も「時をかける少女」も「おおかみこどもの雨と雪」も「サマーウォーズ」も「心が叫びたがってるんだ」も名前は知っているいるけれど見たことがない。原作のないアニメオリジナルの映画だったり、TVアニメを主体としない映画、もしくは原作の評価と別に映画として単体に評価されているような映画。

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幽霊を見たことがない

母親が心霊番組やホラー映画が好きで、子供の頃からよく見ていた。昔だと夏休みの昼にやっていた「あなたの知らない世界」とか「ワイドウォッチャー」とか、つまりワイドショーをよく見ていた。ゴールデンだったら宜保愛子とかも流行っていた。瀬戸内寂聴もどちらかと言うと心霊番組の人という印象のほうが強い。もっとマイナーなところだと、深夜にやっていた「恐怖の百物語」とか。とにかく幼い頃からそういう番組を見て育ったため、幽霊の話や怪談みたいなのは身近に感じる。ただ、霊感みたいなのはよくわからない。幽霊や心霊現象、不思議なことは一度も体験したことがない。身近というのは飽くまでテレビや映画、ドキュメンタリー上のことで、「世の中にはそういうこともあるかもしれないね」という認識が育った程度だ。

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ブックオフの迷走と、せどり

これを読んでいた。ブックオフはいつ頃からか市場調査・買取査定をしっかりやるようになり、そのおかげで以前よりも買取価格が上がった。しかし同時に販売価格も適正になってしまったため掘り出し物がなくなった。売る側からの魅力は以前より増したものの、買う側からの魅力はなくなった。という話。

この背景には、せどりという言葉や、せどりツールなどの一般化によって業者のように必死でせどりをやる層が増えたことが一つ挙げられる。ブコメには「掘り出し物は片っ端からせどり業者に抜かれている」とあったけれど、それもおそらく過去の話で、今ブックオフで販売されている中古品の価格は市場調査が反映されているため、掘り出し物は既になくなってしまっている。

(いくら「市場調査・買取査定をしっかりやる」と言ってもブックオフで定価以上の値段が付くことはないから、定価以上の掘り出し物に関してはせどらーにやられているかもしれない。)

その他に、顧客満足度を異常に重視するクレーム文化の背景もあるんじゃないかと予想してみた。

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Amazonで買う意外な日用品

トイレットペーパー

スコッティ フラワーパック 2倍巻き ダブル 114mm×50m 6ロール入

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これは買って持って帰るのが嫌だから。デカイから。値段もスーパーで買うのと変わらない。

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日記

実は空を飛べます

今日は空を飛ぶ夢を見た。空を飛ぶ夢はよく見る。しょっちゅう見る。あまりにも多く見るため、自分は空を飛べるんじゃないかと勘違いしてしまう。これらの夢は、ときどきは明晰夢で、自由自在に動くことができる。あまり意識していると目が覚めてしまうから調節が必要だ。空を飛ぶと言っても、実際には浮くような感じ。体を浮き上がらせようとする意思に呼応して、そのまま空中にすーっと浮かんでいく。どこまでも上空へ浮かんでいくこともできるが、自分の意思で高さを調節したり、前へ進んだりすることができる。

浮き初めの頃はこの調節に慣れなかったが、今となってはほぼ自由自在に空中で活動することができる。ドラゴンボールの舞空術みたいなものだ。しかしあれとは違って疲れたりしない。スピードを出して飛ぶこともない。空に浮かんでいるときは重力を感じないため、非常に心地がいい。浮力を感じる。水中に浮かんでいるときと似ているが、水中と違うのは抵抗を感じないこと。水の抵抗は大きいが、そういう動きにくさはない。空気抵抗も感じない。空を飛んでいるというよりは幽体離脱のような想像に近いが、人と話したりもできる。今朝は友人に向かって「実は俺、空飛べるんだよ」と言って飛ぶところを実践して見せびらかせていた。

夢の薬物の話

もう一つ夢の話。マンションのリビングのようなとろで何人か集まり、「いいのが手に入ったぞ」と言って渡された。キラキラのラメのような分厚い紙に、カステラのような黒い台紙がついている。大きさは買い物を一つしかしなかったときのレシートぐらい。何かの植物を加工したものらしい。「これをどうするんだ」と聞けば、くれた男(外国人だったと思う)が台紙を剥がし、ラメをくるくると丸めた。ラメは分厚く台紙を剥がした部分が粘着質になっており、丸まった状態で固定される。その先端に火を付け、反対側から煙を吸い出した。ちょうどタバコのように、キラキラのラメの筒を咥え、先端に火をつけて筒の穴を通った煙を吸うのだ。男は嬉しそうに周りの人間にもラメを配っていた。僕も台紙を剥がし、丸めて彼と同じように吸ってみた。最初はただ煙を吸い込んで吐いているだけだったが、そのうち指に挟んでいるラメのように、頭の中がキラキラしてきた。それでもまだ弱い、全然弱い、と思いながら効きが回るのを待ちつつ吸い続けていた。そのうち肩のあたりから全身に浮遊感が広がってきた。周りを見るとそんな顔した人間でいっぱいだった。僕はその中から誰か一人誘おうと思っていた。今やればすごいんだろうなとか思いながら話しかけているうちに目が覚めた。

資本論と旧約聖書

読書週間が続いており、今は「知っておきたいマルクス資本論」という入門書のような本を読んでいる。今までベトナムへ行ったりキューバへ行ったり旧ユーゴのボスニア・ヘルツェゴビナへ行ったりとあれだけ共産主義に関心を持ちながら、その教典とも言えるカール・マルクスの資本論は読んだことがない。だって難しい。実は岩波グレーの資本論1巻だけ持っているが、2ページも開いていない。読む気が起こらない。こういう本は本の中で今までなかったようなあらゆる言葉を定義しており、それをどんどん使ってくるため読みだすと文章以前に「その言葉の意味は何?」が連発する。もちろん日本語だから読めるんだけど「成素形態」とか「捨象」とか「有効労働」とかん?ん?となってしまう。だから原書ではなく入門書でも読んで概要ぐらい知っておこうとなった。

以前にもこれと同じようなことをしたことがある。僕はユダヤ人の本を読んでユダヤ人の友達もいて、シナゴーグにも行ったことがありアウシュヴィッツもイスラエルも訪れたのに、ユダヤ教の教典である旧約聖書を読んだことがない。なぜなら読むのが大変でめんどくさいから。それでも概要ぐらいは知りたいと思って同じく解説書を読んだ。こういうのは理解できようができまいが原典をたどる、というのが学習をすすめる上でもっとも基本的なことであり、その基本をないがしろにすると「資本論も読んでいないのに共産主義に興味あるとか言ってるの?」とか「ユダヤ教のこと調べておきながら旧約聖書読んだことないなんて話にならない」なんていう風に言われかねない。いや、誰が言うんだって話なんだけど、心のなかでは思われるかもしれない。ようするに、原典を通るのが王道なのだ。ただ僕は専門家でもないしめんどくさいから脇道に逸れ、理解もなんとなくでとどまり学術的体系のないオタク程度の知識で終わる。だから「勉強している」なんて胸を張って言えもしない。せいぜい「ちょっと興味があって」というぐらいの自信のない控えめな態度にならざるをえない。

しかしこの、資本論の入門書でさえ読むのが大変だ。言うならば教科書みたいなもんだから、大学のレポートを書くための参考図書を、趣味で読むことを想像してもらったらいい。進まないだろう。おもしろいとかおもしろくないとか以前にエンターテインメントではない。まぎれもない勉強の本だ。しかも読む必要はまったくない。何かの役に立つとかレポートを書いて単位をもらわないと卒業できないとかそういったことは全くない。だからやはり進まない。そう言えば今朝二度寝したときは学校に行かないといけなくて遅刻する夢だった。目覚めて我に返ると現実は、学校どころか会社もとっくに辞めていた。

本を同時に読めない

もう資本論の入門書を投げ出して高野秀行の「移民の宴」に手を伸ばしてしまいそうだ。同時に読めばいいじゃないかと思うかもしれないが、僕は一作品ずつしか本を読めない。その一作品も1日から1週間の間に読み終えてしまう(上中下巻ぐらいまでなら)。長い期間をかけたり間が空いてしまうと記憶が続かないため、可能な限り短い期間で一作品をだーっと読み終えては次、読み終えては次、と進んでいく。何作品もの本を同時に読んだりすると、内容が混同したりそれぞれの話に集中できなくてなにがなんだかわからなくなってくる。さすがに資本論の入門書と「移民の宴」は混ざらないだろうと思うかもしれないが、とにかく二作同時には集中できない。だから連続ドラマでも一つの番組を全話見終わるまで他の番組は見れないし、同時に何人もの人と付き合ったり浮気したりもできない。そんなことをしたら相手を別の人の名前で呼んでしまう。一直線にしか勧めない猪武者、イノシシといえば干支にあるが、昔干支を聞かれて「お前はどういう性格だろ」なんて言われたことがあり、あまりにも無理があると思った。

普通の人、普通じゃない人

「ワセダ三畳青春記」の感想にも書いたが、なぜ自分の目の届く範囲には変わった人がいないのだろうと嘆く。普通の人しかいない。別に普通を非難するつもりはないが「普通が一番難しい」とか「普通が一番いい」とかそういう意見にはなかなか賛成出来ない。個性とか個性的とか、そいうのは普通の範疇でどうでもいいんだけど、普通なのはやはりどうしてもつまらないと感じてしまう。自分の感覚としてはやはり、外国へ行っても普通のありきたりの人ばかりで意外だったし、どこを見渡しても普通の人しかいない。これはおそらく、僕のせいだと思う。自分が普通すぎるから、まわりにも普通の人しかいない。スタンド使いは引かれ合う、じゃないけれど普通じゃない人は普通じゃない人同士で引かれ合うんだと思った。そして僕は普通だから普通の人としか引かれ合わない。

じゃあ一体普通ってなんだ、普通の人ってどういう人だ、と思うかもしれないが、僕の中で普通じゃない人というのは、枠外の人だ。普通という概念が頭の中からすっかり抜け落ちてしまっている人が普通じゃない人だと思う。普通かどうかなんて、生まれてこの方意識したこともないような人。例えば、お金のことを考えないような人とか。それは貧しすぎるとか金持ちすぎるとか経済観念がないとかいう意味ではなく、お金がほしいと思ったことがなかったり、お金がいるとかお金の計算をしたことがないとか「今までコイツどうやって生きてきたんだ」と普通なら思ってしまうような人が普通ではない。普通の社会とか、社会生活とかを意識したことがないような人。普通について悩んでいたり社会に馴染めないとか言ってる人は全然普通だ。普通じゃない人はもっとブッ飛んでいる。「そんなヤツいるか?」と思う人の周りには多分普通の人しかいない。

そんな人はどこにいるのかというと、求道者とか、芸術家とか、宗教家とか、数学者とか哲学者にはときどきそういう人がいる。普通じゃない人になりたかった。そういう人たちと関わりたかった。

「異国トーキョー漂流記」感想・書評

外国人と一緒にいると、目に映る風景も外国人のものになる。東京がトーキョーになる。

日本にいて外国人と関わることはそうそうない。外国人好きであったり仕事で関わる人は別として、それ以外は歩いているときに観光客に道を聞かれるのが年に1回もないだろう。ノンフィクション作家の高野秀行さんは東京にいるときも、あらゆる外国人と関わってきた。外国人が好きだから、という理由ではない。辺境を旅する作家としての仕事のため、と言えばそうなるが、仕事上の繋がりがあるわけではない。知り合いをあたって探しまわったり、偶然出会ったりしてきた。この本に出てくる外国人は、フランス人、スペイン人、コンゴ人、ペルー人、アラブ人、スーダン人、中国人と地域も国籍も様々だが、みな東京で知り合い、関わってきた人たちだ。高野さんは、時には相手の言語を習い、時には宿無しを家に泊め、結婚式のスピーチを頼まれたり身元保証人になったり、世話になったり世話をしたりしている。

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「ワセダ三畳青春記」感想・書評

青春記とあるが、この「ワセダ三畳青春記」(通称:三畳記)は辺境作家、高野秀行が大学時代の22歳から卒業後も33歳まで11年間過ごした、わずか3畳しかないアパートにまつわるエピソードを綴った本だ。大学は通常、浪人留年無しだと22歳で卒業する。高野さんは大学に7年間通ったため、アパートに移り住んでから22〜25歳ぐらいまでの3年間は一応大学生だった。その後の8年は卒業後の話。留年大学生から30代前半のおっさんのエピソードの、どこが青春なのかと思う。ひとくくりに青春といえば、昭和の古臭い甘酸っぱさを思い起こすが、高野さんの青春記はド派手ではないけれど新鮮な、エネルギッシュではないけれど若々しい彩りに満ちており、青春と言われても遜色のない活き活きとした生活の様子が描き出されている。

  • 野々村荘に集う変人たち
  • ユートピア野々村荘
  • 平成の東京の辺境
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大人だって本を読んだら感想を書こう

書を読んで考えないのは食べて消化しないのと同じ。

エドマンド・バーク - Wikipedia

活字離れが騒がれる昨今(もう古いか)、かたやインターネットを見渡せば多くの書評家、読書家があふれている。身の回りで本を読む人は少ないかもしれないが、ネット上には「本を読む人はこんなにもいるのか!」という驚くべき実態が広がっている。しかし、これらは飽くまで本を読んだことを表明している数であり、もしくは読んだ本の感想なり書評が書かれた数で、表面化されていない読書量はその何倍にもあたる。感想なり書評が書かれたものなんてほんの一部にすぎない。

honto - あなたの読書時間、世の中と比べてみませんか?

確かに本は読むけれど、感想や書評なんて一度も書いたことがないという人もいるだろう。だったら書こうぜ!今回はそれだけの話。もうちょっと広げる。

  • 読んだだけではもったいない
  • 「面白かった」で終わらせるのはもったいない
  • 感想の書き方
  • ネタバレについて
  • 子供だけじゃない、大人も読書感想文
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ヘッドフォンが耳に合わない

子供の頃から今にいたるまで数多くのヘッドフォンを試してみたが、どれも耳に合わない。耳に合わないとはどういう事かというと、だんだん痛くなってくるのだ。具体的には耳の輪郭から少し内側を沿う骨が痛くなる。もし他の人が痛くならないのであれば、僕の耳はこの骨が他の人に比べて出っ張っていることになる。そうではないかと薄々感じている。

小学生の頃は、父親から譲ってもらったカセットウォークマンを主に使用していた。まだCDラジカセの時代であり、CDを買ったり借りてきたりしてカセットに録音し、屋外ではそれで音楽を聞いていた。僕が初めて買ったCDはエアロスミスのNine Livesというものなんだけど、テレビのCMで見かけたことと当時好きだった梅澤春人というマンガ家がエアロスミス好きだった影響で買ったというなんとも微妙な初CDエピソードになる。それ以外は普通のJ-POPを聞いていた。なんせ小学生だったからミスチル、スピッツ、シャ乱Q、ウルフルズの時代だった。ミスチルは深海というアルバムが好きで、その後活動休止したんだけど中2ぐらいまで聞いていた。

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人に勧められるブログを目指して

ブログを広めたければ、人に勧められるブログを目指さなければならない。それは自らが「私、ブログやってるんだ」って言う場合もそうだし、「おすすめのブログあるよ」って読者が人に勧める場合もそうだ。つまり、自分が書いているということ、自分が読んでいるということを人に伝えても恥ずかしくないブログである必要がある。もっと言えば、「こんなブログ書いてます」「知ってます」「読んでます」ということがカッコよかったりステイタスになったり尊敬されるようなブログであれば人に勧めやすく、ブログ読者もどんどん拡散してくこと間違いなしだ。では、具体的にどんなブログがカッコよくて、ステイタスで、尊敬されるのか、逆にどんなブログだと人に勧めにくいのか、プラス面とマイナス面両方から見てみよう。

  • 見た目がかっこいい
  • 中身がかっこいい
  • かっこいい中身とは
  • 過度なシモネタ厳禁
  • 背伸びをしよう
  • 人に勧めやすい
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有名になりたければ互助会を活用しよう

今ならもう落ち着いているから、こういう話もできるだろう。

はてなブックマーク開発ブログにて、スパム対策の話が取り上げられていた。ここで言うスパムとは、基本的には機械的なスパムを指している。ブクマを付けるスクリプトがあるのかどうか知らないけれど、そういうアカウント取ってブクマ付けてという事務作業のようなことを機械的にこなしているスクリプトか人力かなんなのかをここではスパムと呼んでいる。例えば企業が公開した記事に対して、ホッテントリに上げるためだけに作成された数多くのアカウントからブクマを付け、ホッテントリに載せ、さも人気がある話題かのように見せかけ、PVを上げて宣伝したり広告したりする。それがここで言うスパムだ。そういうのは大体見抜いている人がブコメで指摘している。

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日記

頭の中は重いテーマがぐるぐるとかき混ざっていい感じに迷走している。もうリレーとかバトンとかたすきとか渡さずに二周三周かけまわっているようなそういう気持ち。では、日常生活をどのように過ごしているのかというと、本当に町内を走り回っているわけではなく、毎日その場にへたり込んで座っているだけ。「うぉー」と叫ぶのも心の中だけであって、周囲は至って穏やか。微動だにしない。今回の日記においても内面の荒波や迷走は寝かせておいて、落ち着いた言葉をつなげてみよう。

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