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楽しんだ者が勝ちという世の中で

これは何と言うのだろう。あるとすれば「享楽至上主義」にでもなるのだろうか。人生楽しんだ者勝ち、という価値観は、戦後の日本を象徴するようにも思える。

おそらく、苦しみ抜いた末に救いがなかった。戦前は、宗教だった。戒律を守りさえすれば、救いがあるという前提のもとで、戦前の人はイスラム教徒やユダヤ教徒のように、厳しい苦しみに耐えたのではないだろうか。戦後の人間からすれば、そういう想像が働く。

実際に、戦前の人は、そう考えてはいない。あるべき姿として、自らを律して生きてきた。ただ、戦後の人からはそう見えた。戦後、ウォーギルドインフォメーションプログラムなどもあり、全否定された戦前の日本がある。その上での今がある。

戦争を転機とした明解な転換というよりは、徐々に、ゆるやかに変わってきた。様々な価値観が崩れ、様々な価値観を導入する過程で。 

戦前の、節度や道徳、大義に重きをおくことの反動としてか、「楽しければいい」「人に迷惑をかけなければいい」という発想。

もちろんその中には、ただ快楽に溺れるという意味ではなく、努力や頑張りも、全て自分が楽しむために向けられるという意味にある。「〜を楽しめ!」というフレーズはよく見る。勉強や努力、労働、社会奉仕活動なども、楽しむ手段として用いられる。楽しくなければ意味が無いとまで言われる。

誰かの苦しみや、痛み、社会の問題や、市民としての責任よりも、個人の楽しみ、享楽を重視する。それこそが、生きている意味であると奨励される。

誰かを救うのは他の誰かという個人ではなく、政府や組織、社会の役割であり、個人は自分の人生をいかに楽しく全うするかに全力を注ぐべき。現代日本においては、これを誰も否定しないのではないだろうか。医者や政治家、自衛隊などの一部で、私を犠牲にして公を全うする人々がいる中であっても。
それこそ「人に迷惑をかけなければ」というのが、いかにも日本人的ではあるが。

今や、金を持っていること、有名であること、実力者であること、権力者であることよりも、楽しんでいる人間が勝ちであり、価値がある。楽しんでいる者は、全てに勝る。金よりも、権力よりも、実力よりも、容姿端麗よりも、健康体よりも。
そして、誰もが楽しんでいる自分を強調する。それこそが人に勝る、人としての絶対の価値であるかのように。 

僕は、これは当たり前のことであり、なおかつ不自然に歪んでいるように思える。
本来、楽しむことは人に見せびらかすものではない。自分さえ良ければいいのだから、認めてもらう必要はない。だから本当は、人の迷惑なんか関係ない。

今の風潮は享楽至上主義の模倣に過ぎない。ただ、楽しんでいる風に見えることが流行りで、かっこよくて、羨望の対象になり、それを模倣することが人々の指標となっているだけだ。
だから「人の迷惑」なんて言葉が出てくる。だから、いつも「楽しんでいる姿」が同じ型にはまっている。本当は人の楽しみ方など千差万別のはずなのに。

その風潮を見る限り、まだまだ個人主義には至っていないと感じる。今でも全く「空気が支配する世の中」であるように思える。確かにその空気そのものは多様化し、それぞれ分かり合えない段階にまで離れてしまっているけれど、まだ帯域がある。型にはまっている。個人の単位ではない。

本当は楽しんでもいない。どうだろう。楽しんでいるのかもしれない。価値観を模倣しながら、人と分かちあうことで、楽しみ合っているのかもしれない。
同じ指標のもとでグループを作り、そうやって人と群れ合う事そのものが楽しいという人もいる。中身はなんであれ。
別にそれはそれでいいと思う。本物であろうが模倣であろうが、人の楽しみについて、僕は賛同はしないし批判もするけど、否定はしない。

この、模倣か本物か、には、順番の違いにあるように思う。楽しい姿から入るか、そこに入り込んで楽しむか。はじめにパターンがあるか、無いかの違い。

例えば、身近な例でいうと、海外旅行。
旅行する前に何を思い描くだろうか。凝った建築のゴージャスなホテル、照り返す太陽と広がるビーチ、異なった文化の見たこともない食事、歴史的建造物や大自然、送迎、異国情緒、旅先での出会い、コミュニケーション、そういうものを提供してもらいに、お金を出すんじゃないだろうか。

僕はだいたいいつも、旅行する前には不安でいっぱいになる。何もわからないから、現地の地図や、ガイドブックでいろいろ調べる。
僕は「なんとかなる」精神も持っていないから、毎回不安になる。帰ってきてからも不安になる。不安の理由は無知であり未知である。それを少しでも埋めようとする。
しかしそれでも、行ったら行ったで楽しい。驚くこと、迷うこと、考えること、解決すること、失敗すること、そのものが。それもだいたい時間が経ってから実感する。

僕はずっと、自分のことを、物事を楽しめない性格だと思っていた。「そんなことをして何が楽しいの?」「そんな人生楽しい?」「生きていて何が楽しいの?」何度も言われた記憶がある。
でも今となっては、人に自分の楽しみが理解されなかっただけのように思う。
同様に、僕は人の楽しみ方についていけなかった。人が楽しいという事をやっても楽しくなく、それで「僕は物事を楽しめない」と思っていた。でも本当は違った。僕の楽しみは僕の中だけにあった。 

自分の楽しいという感情に目を背けると、楽しくないことを頑張って楽しもうと必死になって逆に苦しくなる。世間一般の楽しいことと、自分の楽しいことが一致しないことだってある。むしろほとんどがそうだ。
だから、人から楽しいと見られていなくても、自分が楽しければ本当はそれでいいんだ。それが模倣を脱した、自分の本来の姿であるように思う。

そして、他人の楽しみ方と、自分の楽しみ方に向き合うことで、他者と自分との違いや理解、ひいては尊重につながり、中身のある関係を育むことが出来るだろう。