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OZ日記

天気の話

日記と言えば、天気から。そういう前置きを抜きにしても、こちらの天気は変わりやすく、それは日本にいるのとまた違った変わりやすさであり、話題として十分成り立つ。湿度が低いからか、日照の影響をもろに受ける。太陽が照っていれば暑く、日陰、曇りは寒い。どれぐらい違うかというと、日陰ではウールのカーディガンを着ているが、日なたではタンクトップ一枚になる。Tシャツ、シャツでは追いつかない。ウールか、タンクトップという両極端、それが同じ日の同じ時間帯に、同じ場所で日が照っているかそうでないかという位置の違いだけで起こる。そういう地域は何もオーストラリアだけでなく、カナダもヨーロッパも北アフリカも中東も大体同じだった。どちらかというと多数派。極東アジア、東南アジア、インド北部といった湿度の高い地域では、日が照ろうが照るまいが暑い季節は暑いし、寒い季節は寒い。人々の着ている服装も季節感がバラバラだ。同じ日の同じ場所にタンクトップ、Tシャツもいれば、レザージャケット、薄手のダウンまでいる。アジア人は着込むしウエスタンは薄着が多い。これは国を問わず共通している。これは遺伝的な暑さ、寒さ耐性が影響しているのではないか。そんな気候の中僕は風邪をひいた。風邪はどこでもひいている。

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更新の話

オーストラリアに戻ってきてから1ヶ月が経ち、その間は場所を転々としながら日記を書くか、写真を撮っていた。それはこの1ヶ月間の更新を見てもらえればそのままわかるようになっている。場所を転々としたことについて、何か意味があるかというとあまりなかった。観光をしたわけでもなく、人と会ったわけでもない、そのあたりも日記で触れはしたが何事もない暗い感じで落ち着いている。写真も同じで、特に変わりなし。いつも通り。日記と同じく内面が反映されてしまうため、風景がどうの、人がどうのというよりは「そんなものを撮っている自分」という感じになる。1ヶ月もだらだらとしていたおかげで、ブログの更新頻度は去年の夏ダラダラしていた頃と同じぐらいに戻ってきた。今まで考えていたことや、思いついたことを時間かけて整理し、落とし込めるというのは自分にとって有意義なことでもある。しかし、道楽に過ぎない。もちろん金にはならないし、頭を抱えて突き詰めているだけで一向に答えは出ない。今書ける範囲でとりあえず落としこんではいるものの、全く形になっていない。自分で読み返す度に「もっと考えていたことがある」とは思うが同時に「これ以上書けない」とも思う。それはやはり知識が足りず、経験が足りず、勇気が足りず何よりも情熱が足りない。

内向き外向き

先日、千原ジュニアがNHKのトップランナーに出ていた映像を見た。彼は元々(20年ほど前)「自分が面白いと思う笑いを追求していきたい」という姿勢で取り組んでいたため、低レベルでわかりやすい笑いを嫌っていた。笑いは文化であり「高度な笑い」を理解するにあたっては、見る側の教養が要求される。「高度な笑い」が理解できないというのは抽象画を見て「なんじゃこれ?なにがすごいの?」と思う気持ちと同じだ。クラシック音楽を聞いて退屈するのも、一因は教養が足りないからと言える。千原ジュニアはそういった至高の笑いを目指すコメディアンであった。客に合わせてレベルを下げ、誰でも出来るネタで低レベルな客を笑わせるタレントにはなりたくなかった。20年前はそんなだった彼が、今のように変わったエピソードが番組で語られていた。バイク事故である。

彼が事故から復帰するまでに感じたのは「先輩芸人たちの優しさ」だった。同時に自分を振り返り「自分は今までこの人たちのように、人に優しくしてきただろうか?なんて人に対して優しくなかったんだ」と思い返した。そこで考えを改め、今までのストイックな笑いを追求しながらも、それをいかに優しく、分かりやすく、伝わりやすくして多くの人と笑いを共有できるかという姿勢に変えた。その後千原兄弟の笑いは幅広く親しまれるようになった、という流れだった。

千原ジュニアの話がどうしたのかというと、以前にブログの書き方について人と話したことがあった。人に見せることを意識して、わかりやすく、簡単なことを書くように心がけるか、それよりも中身を追求するか。僕は中身が全く足りていないと感じていたから、人に見せる体裁よりもまずはその中身を充実させたいと思っており、読みやすさとか分かりやすさとか親しみやすさなんていうことを意識したことがなかった。見せ方を工夫するなんていうのは中身ありきで、まずは中身からだと思っている。まずは自分が納得できるというか、満足できるようなものを書いて、そのあと外見を見やすくわかりやすく噛み砕いていけばいいと思っている。いくら外見が良くても中身のつまらない人間には価値を見出だせない。

自分が納得できるものなんていうのは全然書けない。それは表現の差なんていうより、中身が薄っぺらくて見せ方の工夫をすればそのスカスカな中身が余計に露呈するだけだ。千原ジュニアの場合は既に十分中身が面白かったから、見せ方を変えることによって成功したかも知れない。でも中身が無い人はそうはいかない。他の人を見て、それが面白いと思うような人であったり文章であったり作品というのは、見せかけではない圧倒的な中身の凄さを持っていた。それはまさしく本物だった。わかりにくさを超越する圧力を感じた。確かに自分は、外に向けて上手く伝える技法を持ち合わせていないかもしれないが、それ以上に表現をする元となる何か、根本的な塊のようなものが出来上がっていない。「どうやって伝えるか」よりも「何を伝えるか」そこをずっと自分の内側に向けて深く練り込んでいる。そして、自分が思うのは、技法というのは後から他から学ぶこともできてそれほど難しくない。人が読んでわかり易い表現をするというのは、読み手に委ねられる部分は多少あれど、修練することである程度身につくと思う。

他人が求めることを表現するというのは、それをやりたくて適性があれば、できるのかもしれない。外に向けて、他人の評価を求めるということは、目的がそこにある。すなわち、自分と人との関わりにあると言える。自分の目的はそこにはなく、人から評価されるどうこうとは別に、自分がこれで良いと思えるものを形作るところにあった。それが何よりも難しい。自分が作ったものを自分で見て、とことん意味のない、中身のない空虚なものに見えてしまう。つまらない人間だ。