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社会のどの位置にいて、どの位置を目指すか

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罪と罰の終盤において、ラスコーリニコフに訪れたその先の救いのようなものはまだ全然見いだせていない。あれは一体何だったのか。慎ましい日常の中にある一時の安らぎみたいなものか。あの本では最初のテーマとして、ナポレオンの話があった。英雄であれば何をやっても許されるのではないか。ラスコーリニコフは自らが許される存在か否かを確かめるため犯行に及び、自滅した。そこには英雄に対する憧れと、現実の自分との差に打ちひしがれる様子があった。こういった罪と罰の解説や粗筋についてはどれ一つとして納得するものがなく、特にリザヴェータについてそんな話はしていないだろうと思うんだけど今回それは置いといて。世の中においては、許されるか許されないか、という一つの基準で分けることができる。受け入れられる人たちがいて、その一方で排斥される人たちがいる。どちら側に属するかは、生まれながら決まっているように感じる。ナポレオンは極端だが、人に許容される要因の一つは、明るさ、社交性になるのだろう。明るい未来と社交性だけで、例え能力が無くても人は受け入れられる。どこでも受け入れられる。明るさと社交性をもってして人とつながり、その輪を広げていくことができる。人に受け入れて欲しければまず、まばゆいばかりの明るさを振り撒き、世界を一つにするぐらいの社交性をもってして人と接してみようではないか。それが生まれながらに持ち合わせなかった偽りの社交性、明るさであったとしても、ある程度は誤魔化せる。そこから先は、いかに自分を隠すか。

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もう一つ、重要な事がある。普通の人であれば、社交なんて問題ではない。周囲に合わせて同じことをしていればいい。やりたいことをやりたいようにやるだけで、周りの中の一人として役割を担うことができるだろう。気をつけなければいけないのは、自分が浮いている時だ。浮いているとそうはいかない。標準から外れていれば、標準に合わせる努力が必要となってくる。浮いた人間かどうかという基準は、例え国を跨いでも変わらない。許容範囲は違うけれど、根本的な基準はどこも似たようなものだった。例えば、お金のこと、恋愛のこと、幸福のこと、家族のこと、形は違うことも多かったけれど、ほとんどがみな同じ方を向いていた。どこの誰もがお金は大切で、自分の価値や仕事を求めており、優しい人が良しとされ、恋愛に対して前向きであり、幸福を望み、家族を大切にし、食べることが好きだった。お金に関心がなくて、恋愛にも関心がなくて、幸福にも関心がなく、家族にも関心がなく、食べることが苦手な人はあまりいなかった。イレギュラーはどこでもイレギュラーだったし、マイノリティはどこでもマイノリティだった。世の中は全然多様ではなかった。この、世界は全然多様ではないということが、自分にとっては一つの挫折であり、ショックなことであった。

僕が言うのはつまり、敗残者はどこでも敗残者で、落伍者はどこでも落伍者だった。その許容範囲が違うだけ。その一方で、イレギュラーでありマイノリティでありながら受け入れられる存在というのも多数あった。それは多くの場合において、能力が優れた人である。需要のある技術、感性などを持ち合わせた人、そういう人は異形の存在でありながら好かれ、必要とされ、受け入れられた。もしくは社交性。まばゆいばかりの明るさを振り撒き、世界を一つにするぐらいの社交性をもってして、その異形は許容された。大抵のことは、明るさと社交性でなんとでもなる。

才能と社交性、どちらかは持ち合わせているか、両方持ち合わせているか、あなたどこにいて、どこを目指すのだろう。日本に長くいると、日本的な空気に染まってしまう。早く抜け出したいと思う。ずっといろいろ考えたり、考えないようにしたり。大昔に読んだ本で、金持ち父さんのキャッシュフロー・クワドラントという本があった。詳しくは覚えていないが、冒頭の四隅で言うなら、希望の隅へと移動しようというような話だった。何になりたいか、これからどうしたいか、この表で言うなら自分が今どの隅におり、どの隅にいることを希望するのか。僕はだいたいコミュ障とニートの間ぐらいだろう。右側へのシフトというのは考えられないし、望ましくもない。僕の方向性としてはやはり、下へ移動することだ。下に該当するために何をすればいいのか、どうすれば下へ移動できるのか。そういうことを前提に、今とこれからをもう少し考えたいと思う。自分にとって何が必要で、何が大事で、何を望むのか。価値観の問題というのはすごく難しくて、つい惑わされそうになる。シーチキンはごちそうっていう言葉にはしびれたなー。