通知オフ

通知をオフにしている。スマートフォンは結構前から着信音もバイブも切っていたが、去年ぐらいから通知(Notification)を全てオフにしている。同時にMacの通知も全てオフにしている。お知らせが届くことはなく、メッセージやらなんやらの受信は自ら確認しに行かなければ見れない。一刻一秒を争うような環境にいないため、確認が遅れようと大した問題ではない。むしろ通知によって煩わしさがつのるだけということに気づいた。これは性格上の問題だろう。

例えばiPhoneを利用していたときは、未読件数の赤丸を非表示にしていた。未読があることがわかると確認して処理しなければ落ち着かないため、通知があるたび処理に追われていた。常にそんなことをやっているとそれだけで1日が終わる。だったらいっそのこと、初めから表示しないようにしようと思って赤バッヂを消した。常にクリーンな状態を保っておきたいという強迫観念が強い。それを見かねて初めから汚さない方式へと変えた。

同様に、通知があると残しておけない。その場ですぐに確認せずにはいられなくなる。だから音は当然ながらパネルもバナーも何も表示しないように設定した。常時スリープモードができればいいんだけど、Macはそれができないため一個ずつオフ設定をした。僕と対象的な人は、未読が何百件と溜まっていながら気にしない人。彼らにとってもはや通知も未読表示も意味を成していない。図太いというか鈍感というか、我々センシティブな人間からすれば鋼のメンタルなんだろうなーと思う。

「通知オフにしていて気づかなかったら困る」ことはそうそう無い。気づいたときにあーしまったと思うことはあるかもしれないが、次の瞬間にはどうでもよくなっている。本当に大事な要件だけ通知される緊急のラインを用意しておけばいいだけで、その他のたいていのことは気分を乱すだけのどうでもいい情報だった。そんなものわざわざリアルタイムに通知されなくとも、落ち着いているときに定期的に確認していれば事足りる。確認作業は自分のペースで能動的に行いたい。重要ではない誰かや自動応答プログラムに対して受動的に反応し、心の平穏を乱されるのはつらい。

人と分かち合わない趣味

趣味は人と分かち合ってなんぼ、というものもあれば、一人だけで楽しむものもある。その対象と扱い方は人によって様々で、僕の場合たいていの趣味は一人だけで楽しむことに費やされる。ときどきは人と分かち合うこともある。人と映画の話をしたりマンガの話をしたり音楽の話をしたり「あれ知ってる、これ知ってる」だけで終わってしまうとすごくつまらないんだけど「どこが良い、ここはどう感じる、この部分をどう思う」といった中身に踏み込んでいけば話はおもしろくなる。趣味がコミュニケーションの媒体として機能する瞬間だ。

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読みたい本をどこから見つけるか

読みたい本が増えてきてせっせと欲しいものリストに追加している。しかし手元にはまだ読み終えていない本が1、2、3、8冊ある。中には借り物もあって、こちらから先に読んでいかなければならない。それにしても、このように読みたい本がどんどん溜まっていくこともあれば、全く無いこともある。本が読みたいときに、読みたい本が見つからない、そういうことって多々あるんじゃないか。読みたい本はどうすれば見つけることができるのだろう。その経緯を少しまとめてみた。

ほしいものリスト - Letter from Kyoto

  • 本から
  • 映画の原作
  • Twitterから
  • ブログから
  • 配信から
  • ネットですね
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映画「メッセージ」ネタバレ・感想・評価

岡田斗司夫による映画「メッセージ」のネタバレ配信を見て思った。これジョジョだ。

#180表 岡田斗司夫ゼミ『メッセージ』ネタバレ大解説(4.18) - ニコニコ動画

  • 未来のことを思い出す
  • あらかじめ決まっている運命
  • メイド・イン・ヘブンとの類似性
  • 現実的に進化を考えると
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2017年5月のふりかえり

5月もあっという間でしたね。相変わらず何やっていたか覚えていないため、ふりかえっていきます。今月は25回更新した。先月の15回に比べるといくらか増えたが、前半は読書が中心、後半は写真を撮っていただけ。それ以外はやっぱり日記で場繋ぎをしている。かろうじて香港に向けた準備をしているぐらい。

5月は気候が非常に安定していて過ごしやすかった。

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週刊日記

音声ブログ

(18分)

今回もオーディオブック的な試みで読み上げを行っております。いつも忘れてしまい、音声の方はときどきの更新になる。全部やるというのもさすがにめんどくさい。ときどき音声のみの配信もやっていて、主に人と話したときなんだけど、それらは書き起こしもしていない。

日本ではオーディオブックがあまり普及していないが、アメリカなんかは割りと多いらしい。それは英語が文字を読むよりも音を聞くことが中心になっているからとか、文盲が多いからとか、車社会で運転する時間が長いといった背景もあるみたい。オーディオブックは買ったことはないんだけど、そのへんのメリットとデメリットを思いつく範囲で挙げてみよう。

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#FF外からでも失礼ではありません

Twitter歴10年になるが「FF外から失礼します!」ってのは言われたことがない。あったっけ、なかったと思う。もちろん自分も言ったことはない。「FF外から失礼します!」はレイトマジョリティが持ち込んだ大衆文化であり、まだiPhoneも存在しなかった頃からTwitterを使用しているアーリーアダプターの僕に言わせると愚民どもの象徴でしかない。

一応なんのことか説明しておくと、FFってのは多分フォローフォロワーのことで、Twitterにおける用語だ。フォローしている、もしくはフォローされている関係のことを指す。お互いにフォローしあっている関係を相互フォローと言う。FF外ってことは「フォローしていないし、されてもいない」ということだろう。

Twitter上ではリプライ(返信)を送る際の枕詞として「FF外から失礼します!」の使用例が見受けられる。しかし「FF内から失礼します!」や「相互フォローから失礼します!」は見たことがない。彼らの認識では、FF内や相互フォローだと失礼にあたらないということなのだろう。それもよくわからない。なぜならフォローは自由にできるものであり、FF外が失礼だと思うならあらかじめ勝手にフォローすればいいだけの話なんだから。

つまり彼らは失礼だと思いながらリプライを送っている。「FF外から失礼します!」を言い換えると「失礼だとわかってるから許せよ!」という意味になる。自ら失礼だと思うことを行いつつも相手に許しを請うとは、なんとも図々しい。だったらやらなければいいのに、もしくはフォローすればいいのに。しかし彼らはあえてそのルートを放棄し、自らの都合を優先して「FF外から失礼します!=失礼だとわかってるから許せよ!」とのたまう。

こういうレイトマジョリティの大衆文化が持ち込まれた経緯として、おそらくどこかのタイミングで愚民の一人が「FF外なのに失礼だろ!」と発言したのだろう。フォローしてようがしてまいが、失礼なもんは失礼だ。フォローによって失礼が解消されるなんてことはない。ましてや「FF外から失礼します!」と言ったところで失礼な発言が失礼ではなくなるわけでもない。

ただ実際の使用例を見てみると「FF外から失礼します!」が登場した経緯もなんとなく理解できる。「FF外から失礼します!」は一つのツイートがリツイートによって拡散し、見ず知らずの人から多くのリプライを受けているときによく目にする。僕は今までそんな憂き目にあったことないけれど、例えば1万RTとかされた人は、本人からすれば「おまえ誰だよ」って人たちから多くのリプライを受けている。その枕詞として「FF外から失礼します!」が使用されているケースが多い。

要するに、拡散されているリツイートに対して全然関係ない人がいっちょ噛みしたいときの免罪符として「FF外から失礼します!」が用いられる。これ言っておけば迷惑かけても許されるだろうと。甘い!甘いわーその大衆心理。失礼なことはするなよ!もしくはわかってて失礼なことするなら堂々とやれよ!と言いたい。そして「FF外なのに失礼だろ!」などと言う人が本当にいるなら言いたい。Twitterはそういう場所です。フォロー外からの発言を受け取りたくない、もしくは勝手にフォローされたくないなら鍵かけてください。ちゃんとそういう機能が備わっており、実際そうしている人はたくさんいます。失礼な人はブロックもできます。ブロック悟られたくなければ今はミュートだって可能です。

僕のツイッターアカウントは10年経ってもフォロワー500人ぐらいしかいません。有益なツイートは何一つ行っておりませんが、FF外からでも失礼ではありません。鍵もかけていません。

ユニクロのサングラス

サングラスは消耗品である。なぜならすぐになくすから。あと落として傷がいったり形が歪んできたりつるのネジがバカになったり形が気に入らなくなったりするため、今までよくサングラスを買い替えてきた。高いの(と言っても1万前後)もいくつかあるが、消耗品であれば安いのを買い回せばいいと思っている。通販で買ったものもあるけれど、帽子とサングラスに関しては必ず試着して買ったほうがいい。見た目が気に入っても顔や頭の形に合うかどうかはつけてみるまでわからない(サングラスを選ぶ基準の一つとして、眉毛がちゃんと隠れるとかがある)。

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これが今つけているサングラス。オーストラリアで買ったやつで、$7だった。既に何度もつるが落ち、ネジを締め直してぐらぐらきている。縁の色も剥げてきている。ファッションアイテムなんかではなく実用品であり、直射日光が当たる畑仕事中にずっとかけていた。その後も合わせて2年使用し、そろそろ限界だ。700円弱にしては大活躍した。もういつ捨ててもいい。

  • 制服的サングラス番外編
  • 制服的サングラス本編
  • ユニクラーな若者と中高年
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その先に何があるのか

あまり考えてない。二手三手先を読むとか、将来を見据えての行動とか苦手だ。詰将棋とか考えるのもだるいと思ってしまう。その先にある利益なりなんなりを考えた上で現在の行動を決める人もいれば、その瞬間がただ楽しければいいっていう人もいる。アリとキリギリスは未来予測が不確かな現代において逆転しているなどとも言われるが、僕個人の話で言えば今の楽しみなんていうのもなかなか見いだせなくてどっちつかずと言うよりは、どちらも手にできないで歯がゆい。先にある不安を軽減するために苦労したって、その先に待っている物事はいずれにせよあまり大した違いがないように思えてくる。手にするまでわからないと言ってしまえばそのとおりなんだが、そのために頑張ろうなんていう気持ちは全く湧いてこなくて、ああ、いつもこんな話してるな。

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蚊柱、夕方、ベストシーズン

蚊柱

河川敷を自転車で走っている。花粉症の季節も終わり、サングラスにマスクの自転車姿が終わった。サングラスは今もつけているが、マスクが外れた分あやしさが緩和された。5月のこの季節、今まで始まりの春だったのがそろそろ本気を出した。真っ盛りである。太陽は照り返し、周囲を温めながら肌を焼く。花咲き乱れ、草木生い茂り、夏に向けての生命活動に満ちあふれた河川敷は、虫だらけだ。いわゆる蚊柱という、立ちのぼる煙のような虫の大群がそこらじゅうでもうもうとテリトリーを築いている。そして、僕は自転車に乗っている。自転車に乗っている人が蚊柱を避けて走っている姿を見たことがあるだろうか。当然ながらその虫の大群の中へと突っ込んでいってしまう。何度も、数メートルごとに。蚊柱と言うが、実際はブユとかブヨとか呼ばれる蚊の幼生だ。あれの大群が、まるでそこだけ竜巻が起こっているように、そこにセーブポイントがあるように、らせんを描きながら飛び交っている。そこに自転車で突っ込むのだ。

その間だけ息を止めていないと鼻の穴から入ってくる。口を閉じていないとクジラのイワシ漁みたいにたくさん食べてしまう。呼吸のタイミングがずれて口の中に入った虫をつばと一緒にペっと吐き出すことが一日に一回ぐらいある。サングラスをしていない日にいっぴき目の中に入って目が腫れた。

河川敷なんか走らなければいい。道路を走れば虫の大群に悩まされることはない。しかしながら、道路には信号がある。信号で止まって信号待ちをしなければならない。河川敷には信号がない。さらに、自転車にライトがついていないため、夜走っていると警官に止めらたとき無灯火でややこしいことになる。河川敷に警官は現れない。

あの蚊柱はとくに夕方ぐらいがやばい。日の沈む時間帯に何か虫たちのもよおしものがあるのだろうか。

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