働きたくない

僕はよく、働きたくないと口にする。するとよく、

「誰だって働きたくないが、誰だってお金が必要だ。」

と言われる。そんなことはわかっている、そんなことは当たり前だと思うと同時に、本当にそうか?彼らがやっているのは、お金が欲しいから必要以上に働くということだ。必要だから嫌なことを、必要だから仕方なくやっているという態度ではない。僕は必要以上にお金が欲しいとは思わない。動機付けがまるで違う。

例えば、今バイトをしているが労働時間をなるべく短くしたい。週3とかがいい。生活に必要なお金はそれで十分だ。それ以上は余剰でしかない。「何がが欲しいから」「何かがしたいから」と言って余剰のために余分に働く気にはなれない。バイト先の人は「お金がほしいから」といって掛け持ちしたりして週6とか週7で働いている。彼らは働くこと自体を苦に感じているように見えない。働きたくなければそんな選択は取らない。

それ以上に働くことが嫌いだ。余分に働くぐらいなら生活を切り詰める。お金の余裕より時間の余裕、心の平穏の方が大事だ。確かにお金で安心が買える人もいるだろう。必死で働いて、お金がたくさんあることで心の平穏を得られる人も多いと思う。先々のことや、何かあった時に余分なお金があれば保険になる。また、お金を使うこと、貯めたお金で欲しい物を買ったり高い食事をしたり、お金を使って遊ぶことが楽しい、心が満たされるという人も多い。しかし僕はそうではない。彼らが羨ましい。そういう動機付けで労働を続けられることが。

余分に働いて余分に稼ぐ余裕があるなら休みを取る。働くことで、お金を稼ぐことで心の平穏、余裕は得られなかった。むしろ不安定になった。不安定になったから何とか切り抜けるためにお金を散財しまくってはいたが、そのためにたくさんお金を稼ごうなどとは到底思えなかった。今もバイトしていることで不安定だから無駄遣いをしたりしているが、そんなのは誤魔化しに過ぎない。決して無駄遣いをするために働いているわけではない。お酒と一緒だ。同じアル中でもお酒が好きだから毎日飲む人に、好きでもないのに毎日飲まなければやっていられない人の気持は理解できない。

「家庭があるから嫌々でも働かざるを得ない」という人もいるかもしれないが、そもそもそういう状況に陥ることを避ける。家庭を持った人は、それはその人の選択だ。もし本当にそのために働くのが嫌なら、家庭なんか持たなければいいだけの話だ。家庭があったり責任があるとまた話が違うようにも見えるが、基本的には同じ。

中には親の介護や身内の病気、借金などを背負い、本当に必死で働かざるを得ない人もいる。こればかりは「そんなの放っておけばいい」とは言えない。現実にはそういうことはできない。そういう状況に陥ってしまえばいくら僕でも、精神がおかしくなっても身を滅ぼしてでも働くだろう。だからこそ余計にその立場には立ちたくない。

労働に対する憎悪というのは生半可なものではない。「誰だってお金が必要だ」と言いながらそこそこ仕事を楽しんでいる人たち、好きな物を買うために働いて喜んでいる人たち、そのお金で円満な家庭を築いている人たちには理解できないだろう。僕とは根本的に違う。また日本は労働が美徳とされているため、キリスト教圏のような、労働は罰というような発想がない。それにしては、彼らはなんだかんだ言っても意気揚々と働いているようにも見える。プロテスタントだからだろうか。

なぜそこまで働くことが嫌いなのかというと、働けないからだ。「〜をやってくれ」と言われてさらっとこなし、褒められる人にはわからないだろう。「なんでこんなことができないんだ」「いつまでやっているんだ」「なんでこんなこともわからないんだ」「いつになったら慣れるんだ」「やる気あんのか」「真面目にやれ」「あれをやれ」「これをやれ」「こうすればいい」「まだできていないのか」「また失敗したのか」と言われ続ける立場の人間の気持ちは理解できないだろう。

例え言われなくても同じだ。怒られるから嫌なわけではない。仕事はやはり相手が存在するから成り立つことで、誰かの意に沿うように労働ができないということ、相手の要求を満たせないということ、そのために必死になるということがどれだけ苦しいか。仕事が出来る人が羨ましいのは、そういうことを考えなくていいことだ。そして見限られた時、自分の無能感と同時に「もう働かなくていいんだ」という安心感が生まれる。僕にはできることがない。やりたいこともない。だから働きたくない。実に単純だ。

たまに僕に対して「老後はどうするんだ?」と聞いてくる人もいるが、このまま働き続けたら自殺すると思っていた人間に老後もクソもない。お金が、労働が僕の生活、生命を維持していることは事実であり確かなのだが、それが同時に僕を蝕む。労働は僕にとって辛苦以外の何物でもない。