佐藤

「なんやこのメール」

メールボックスに届くメールといえば、無料購読している新聞の今日の記事一覧か、どこからやってきたのかスパムメール、ちなみにこのスパムという言葉は食べ物のスパムから来ているそうだ。他には会員登録している協会からの連絡網、あとはウェブサイトを置いているレンタルサーバーからのお知らせが頻繁に来るぐらいで、朝の業務の一部となっているメール確認はものの2分で終わる。そのほとんどは内容を確認することもなく既読扱いにして、受信箱の数字を減らすだけの作業だ。しかし今日のそれは違った。

「なんや、どうしたん」

「メール来てますよ、メール。もしかしたら仕事かもしれません」

「ほんまかいな、ちょ見してみ」

「いや、そっちで見れますよ」

雇用主である藤井はデスクにあるディスプレイの上から顔を出し、被雇用者である縞と会話をしていたかと思うと、またディスプレイの隠れてキーボードを叩き出した。

「どれの事言うてんの?」

「上から4つ目の、No Subjectって書いてあるメールです」

「どれや、これか、これやな」

彼女のマウスを操作している右手だけがこちらから伺える。

「なんやこれ」

「ね、なんやこれでしょ。うち旅行会社でしたっけ?」

こんにちは。名前は佐藤です。私は次の月曜日から京都に行く。私は案内を頼みたい。ここでホテルの予約ができない。それも頼みたい。大丈夫?返事ください。佐藤

「あんたふざけてんの?仕事かもしれん言うから期待したわ。こんなもん間違いかいたずらかなんかやろ、しょうもない、腹立つわ」

「まあまあ」

「まあまあやあらへんで、私が腹立ってんのあんたにや。どこが仕事やねんこんなん、いちいち期待させんといてほんまに」

「えーっちょっと待ってください、じゃあこれどうしたらいいんですか」

「知らんわそんなん、自分の好きにしいや」

「えっと、経費出るんですか?」

「出るわけないやろ、アホか!」

確かにくだらないメールではあった。しかし縞はここ最近仕事と呼べるような仕事が無く暇であり、些細な変化に浮かれた矢先であったため、藤井の常識的かつ冷静な反応に少し落ち込んだ。縞は事務所と同じビルにある一室に住んでいた。この事務所に就職すると同時に部屋を探していたところ、前に休憩室として使っていた部屋が空いていると言われ、そこに住むことになった。家賃や水道光熱費も含め給料から天引きされているため、元々いくらなのかわからない。今までに忙しい時期もあったが、近頃はその部屋から別のフロアにあるこの事務所へ行ったり来たりするだけの日々が退屈で仕方なかった。

宛先間違ってませんか?

縞はそれだけ打ってメールを送信した。すぐ受信箱に新規受信マークが付いた。Mailer Daemon

「あれ」

「なんや、まだなんかあんのか?」

「返信できなかったです。このアドレスは使われてないって」

「ほら見てみい、いたずらやろ」

 

 

その日も朝から、縞の仕事はメールチェックで始まった。省電力モードで待機していたiMacにパスワードを入力すると新着メールのお知らせが表示される。3件。そこをクリックするとメールのアプリケーションが起動し、3件のタイトルが表示される。日本経済新聞朝刊のお知らせ、Amazonからのメール、No Subject、縞は無意識にNo Subjectをクリックしていた。

間違っていない。返事ありがとう。あなたは案内できるか?私は行きたい場所がある。ホテルを予約できるか?私はどこでも気にしない。再び返事ください。佐藤

「あれ」

「あんな、そうやっていちいち声に出すんやめてくれへんかな」

藤井はイライラした調子で縞に向かって小言を吐いた。縞は藤井が今どんな仕事をしている最中なのか把握していない。しかし最近は藤井も縞と同様に事務所にいることが多く、上手くいっていないか、もしくは暇なのだろう。先日の仕事の依頼に対する食いつきや今の苛立ちからもその様子が伺える。

「違うんですよ、メールの返事が来てるんです。おかしいなあ、宛先不明だったのに。」

「せやからなんやねん」

「なんやねんて言われても、間違ってないって来てますよ。知り合いですか?」

「知り合い?誰が?」

「だからこの、佐藤って人です」

「佐藤って知り合いが世の中どんだけおる思てんねん」

「まあそうなんですけど、来週こっちに旅行する予定の佐藤さんって知り合いは…いないですよね」

縞はこれ以上藤井の苛立ちに水を差すのはよそうと思い、言い留まった。藤井はデスクで頬杖をつきながら、反対の手でマウスをカチカチ鳴らし、パソコンで作業をしている。どうしよう。縞はメールが気になっていた。受信箱には確かに宛先不明通知が残っているにも関わらず、こうやって返信が来ている。藤井も縞も知らないこの佐藤という人物。この事務所にはもう一人薗山という社員がいるものの、彼は現在主張中で来月まで戻らない。彼宛であれば彼に直接送っているだろう。そもそも誰宛とは書かれていない。このinfo@に送ってきたということはおそらくウェブサイトを見て送ってきたか、広告か何かを見て送ってきたのだろう。最近は広告も出していなかったはずだ。そしてこのメールの文面もおかしい。とても簡潔でありながら要領を得ない。さらに日本語が変だ。しかし名前は佐藤と名乗っている。偽名なのだろうか。こんなメールに対してまともに相手しようなどと考えるのは余程暇な人物だけだろう。縞がそれだった。

佐藤様、お返事有り難うございます。メールの宛先をお間違えではなかったということで、ご返答いたします。まずはご案内ということですが、どちらへご案内すればよろしいでしょうか。私共の方でご案内が可能な場所であれば、手配致します。また、宿泊先につきましてはご予算はいかほどでお考えでしょうか。何名様で、何泊ご宿泊されるご予定でしょうか。それらにつきましてご返答頂き次第、お見積りをお送りいたします。何卒よろしくお願いいたします。合同会社 籐千 縞(しま)

縞がメールを送信すると、前回と同様に宛先不明通知が返ってきた。やはりそうだよな。送り先のメールアドレスは“jrn.s5072@f.tp”短い。さぞかし覚えやすいことだろう。縞は藤井の方に目をやった。その顔はディスプレイで隠れておりマウスを操作する右手しか見えないが、どうやらメールのやりとりに気付いていないらしい。共有メールであるため藤井がチェックしようと思えばいくらでも見ることができる。

 

 

案内は橘顕に会う。私一人は1日泊まる。10万円でいいか?返事を待つ。佐藤

「なんやこれ。あっ、」

縞は思わず藤井のデスクの方を見た。藤井はいつも通り顔がディスプレイに隠れている。縞の声に苛立っているに違いないが反応こそ示さなかった。縞は再び画面に顔を向けた。メールの内容は、怪しすぎる。橘顕って名前なのか。たちばな、ケンとでも読むのだろうか。確か石山本願寺に顕如っていう人がいたのを歴史で習った記憶がある。たちばなケンって誰だ。聞いたことがない。そのどこの誰とも知らないたちばなケンとやらに会わせて1泊し、10万円ってなんだ一体。そんな京都旅行は聞いたことがない。

「あの」

縞は藤井に話しかけたが、彼女は頬杖をついて右手でマウスをカチカチ鳴らしていた。

「藤井さん、たちばなケンっていう人知りませんよね?」

「ハア?」

藤井からは侮蔑と苛立ちを込めたような声が返ってきた。おそらく顔の半分を歪めて返事をしただろうけれど縞から藤井の顔は確認できなかった。藤井は席から立ち上がった。縞は驚いて見上げたが、藤井の視線は別の方を向いており、そちらに向かって歩いていった。その先にはコーヒーサーバーがある。

「縞くん最近なにやってんの?」

片手にコーヒーを持った藤井はいつの間にか縞の背後に立っていた。もう片方の手は縞が座っているイスの背もたれに置かれている。この「最近なにやってんの?」はもちろん「最近どう?」みたいな挨拶ではない。二人は毎日この事務所で会っている。

「いや、違うんですよ、これも仕事になったらと思って」

「どれ」

「あの、先日言ってたメールの件です」

「いやわからんて」

「これですこれ。この佐藤っていう人からメールが来て京都を1日案内して欲しいって内容なんですけど、それがこの“たちばなケン”って人と会いたいみたいで、その案内と1泊で10万払うって言ってるみたいなんですけど、うちは旅行代理店でも探偵でもないじゃないですか、初めは気になったんですけど内容もちょっと怪しすぎるからやんわりと断ろうかと思ってるんですけど」

縞はディスプレイにメールを表示し、藤井に見せながら言い訳していた。藤井はそんなのどうでもいいと言わんばかりの表情で画面に目をやった。

「それ、あきやで」

「え」

「それケンちゃうわ、アキって読むねん。橘顕」

「知ってるんですか」

「ああ知ってるで。友達の弟やな。今高校生ぐらいちゃうかな、こんな字書くやつ他におらんやろ。ええやん、受けたれやこれ、10万もらえるんやろ」

「本気で言うてはるんですか」

「縞くん、今月売上なんぼや」

「いや、そういう問題」

「ええやんか別に、その佐藤っちゅうのはわからんけど、1日だけなんやろ?アキちゃんはあんたが守ったったらええやん、大丈夫やて」

「ほんまにやるんですか」

「だから今月売上なんぼやて」

「わ、わかりました…」

「アキちゃんには私がアポ入れといたるから、日時だけ聞いといてや。ほんま懐かしいなあ、アキちゃんの名前聞くとか何年ぶりやろ。あ、あんまり変な奴やったら会わしたらあかんで、ナイフ持ってたりとかな」

「え、ちょっとやめてくださいよ、その前に僕が会うんですから」

「ほな断ったら?」

縞はこの予想していなかった展開に混乱していた。こういった方向に話が進む準備は全く準備ができておらず、受ける、断るなどという物事の判断ができる状態ではなかった。

「おもろいやん、後でどうなったか教えてな」

「ちょっと待ってください、ついてきてくれないんですか」

「なんでいかなあかんねん」

結局縞が一人でこの案件を受けることになり、藤井はその顔見知りの“アキちゃん”とのアポを取ってくれることになった。「絶対断られへんからまかしとき」と言っていたが、縞の不安はそこにはなかった。この得体の知れない佐藤という人物と、自分の上司の友人の弟を会わせて大丈夫なのだろうか。宿泊先はどうしましょうと相談するも「あんたんとこに泊めたったら10万まるまる儲かるやん」などと言われた。そんな冗談みたいな話を縞が受けるはずもなく、結局このビルにまだ空きがありそこを縞が掃除して、佐藤を泊めるために使わせてもらうことになった。もしくは当日に宿泊先を探すことだって可能だ。それにしても何故この佐藤とやらは自分で手配しないのだ。今どき外国のホテルだってネットで簡単に予約できるというのに。縞の不安は拭えなかった。

 

 

当日、縞は京都駅に来ていた。京都駅が一番わかりやすいだろうと思い指定したのは縞だったが「座標ください」と言われ、予めメールで座標を送っていた。どうやら佐藤ナニガシは京都駅も知らないようだ。そんな人いるのか?それにしても座標で指定していれば会えないということはないだろう。そして縞が今立っている場所がその座標だ。

京都駅はいつも通り人でごった返している。そのほとんどは観光客だろうか。通勤で京都駅を使う人というのはそうそう多くないだろう。そうでもないか。この近辺で働いている人だったら利用する。駅近くも開発が進み、周辺で働く人は増えただろうから。

「シマさんですよね?」

「あ、はい」

「佐藤です。ほんまにありがとうございます。私メール下手で、あんな話受けてもらえる思てへんかったからほんま感謝してます。」

縞は急に声をかけられ、佐藤と名乗り挨拶をしながらバツの悪そうな笑みをたたえる女性を目の前にして驚いた。この人が佐藤?めっちゃ普通だ。歳は20代、前半にも後半にも見える。服装は上下真っ白でややシンプル過ぎるノースリーブのワンピースとパンツがつながったようなあまり見たことがないデザインの格好。そして普通に日本人で日本語も話す。それどころか藤井と同じ京訛りだ。あのメールは一体何だったんだ。

「あの、シマさんですよね?」

「あ、はい、大丈夫です、縞です、本日はよろしくお願いします」

「お願いします、それで…あのう」

佐藤はやや不安そうな顔をして目線をそらした。ここで待っていたのは縞だけだった。彼女はおそらく“アキちゃん”こと橘顕について聞きたいのだろう。京都まで旅行に来て1泊だけして一人の学生に会うだけ、というのは余程の事情だ。その点についての怪しさだけは拭い切れない。

「橘顕さんですよね、これから行く喫茶店で待ってもらっています。あの、差し出がましいようですが、橘さんとはどのような」

佐藤は不安そうな顔をしたまま縞の目を見上げた。

「ごめんなさい、ちょっとそれは。あの、これ、先受け取ってもらえませんか」

佐藤は着ている服の切れ込みから白いケースのようなものを取り出し、縞に渡した。それは真っ白で繋ぎ目がなく、軽い長方形の物体だった。セラミックスのような手触りだ。

「あ、ごめんなさい」

佐藤は手を差し出し、縞に渡した白い物を再び受け取ると中から1万円札の束を取り出してもう一度縞に渡した。縞はされるがままそれを無言で見ていた。手元には約束の10万円があった。お札はピン札ではなく、少し傷んでいるようにも見えた。

「あの、駄目ですか」

「ダメ?」

「はい、私、会えないでしょうか。駄目ならこれだけでも渡して欲しいんですが」

そう言って佐藤は再び切れ込みからレターケースを取り出し、先ほどの札束と同じく縞に渡した。縞は呆然としながらそれを受け取る。

「それでは、おねがい、します」

佐藤の表情はひどく沈んでいる。自分が何者かも、その理由も明かさないことには“橘顕”に会えないことは覚悟していたようだ。そのために現金を渡すタイミングも手紙も用意していたのだろう。しかし、いざそういう事実が突きつけられ、本来の目的が達成できないことを実感し、その感情が隠しきれず表情に出ている。縞が呆然としたまま佐藤の目を見ると、彼女は暗い顔をしたまま縞に微笑を返した。

「私も付き添っていいですか」

「…はい?」

「私も付き添って良ければ、今からご案内します」

縞はそう言って佐藤に手紙を返した。

「これはご自身でお願いします」

「…わかりました。ありがとうございます」

縞と佐藤は駅前のタクシー乗り場からタクシーに乗った。二人はタクシーの中で終始無言だった。京都駅から今出川通へと向かい、辿り着くとタクシーを降り、少し歩いた。“橘顕”が待っているだろうはずの喫茶店は交差点からすぐ近くにあり、中へと入る。縞は“橘顕”と顔見知りではなく、店のどこで待っているかも藤井からは聞いていない。

「…アキちゃん」

佐藤はそうつぶやくと、一人の男性が座るテーブルの方へと歩いていった。テーブルでコーヒーを飲んでいる彼は、短めの黒髪で、四角く細いメガネをかけた痩せ型の男性だった。薄い橙色のカーディガンの下には白いシャツが覗いており、左手でカップを持ち上げていたところ、そちらへと歩み寄る佐藤とその後ろをついていく縞に気付いた。

「タチバナ、さんですよね?」

縞は佐藤の後ろから男性に声をかけた。

「はい。藤井さんの部下の方ですか」

部下。確かにそうだ。縞は藤井の部下だった。しかしそういう風には言われ慣れていなかったため、縞にとっては少し変な感じだった。

「はい、縞と申します。本日はご足労ありがとうございます」

「あの、大丈夫ですか?シマさん、こちらの方」

間に挟まれた佐藤は、肩を震わせていた。

「アキちゃん、これ!」

佐藤はそう言って、橘顕に先ほどの手紙を渡すと、足早と店を出て行った。

「え、ちょっと…」

縞はあっけにとられながらも佐藤を追いかけようと店を出た。

「あれ」

右を見る。左を見る。佐藤はいなかった。あまりのことで追いかけるのがやや遅れ気味になったとはいえ、そんなに早く姿を消すものだろうか。橘顕を店に一人で残しているため縞は店の中へと戻った。

「すみません、お騒がせして」

「いえ、問題ありません。ちょっとびっくりして」

「本当私もびっくりしましたよ。あの人なんなんですか?一体」

「あなたが連れてきたんじゃないですか」

「え、知り合いですよね」

「知ってるわけないでしょ、初対面なのに」

縞は最初この橘顕が何言っているのか理解できなかった。橘が言うには、今まで会ったことがないそうだ。彼女の容姿を見て、佐藤という名前を伝えても心当りがないと言う。しかし縞も橘も佐藤が「アキちゃん」と漏らすのを確かに聞いていた。そして橘に会ってから手紙を渡し、去って行く時、彼女は明らかに泣いていた。それは橘も心配したほどだ。彼の熱狂的なファンでストーカーだったとでも言うのだろうか。それにしても不自然だ。いや、不自然なのはその場に始まったことではない。メールから何からずっと不自然だった。彼女について不自然ではないことなど一つもないぐらいだ。

「でも、なんか」

縞は橘の顔を見た。

「なんか、また会いそうな気がする」

橘は遠い目でそんな独り言にも聞こえる言葉をつぶやいた。縞はその言葉に少し違和感を覚えた。その違和感は一体なんだろう。佐藤がいなくなり、喫茶店に残された初対面の二人。橘はこの近くにある国立大学へ通っているという。電池の研究をしているそうだ。最近ではリチウムイオン電池の電力供給量がもう限界に達しており、それに取って代わる新たな技術が求められているという話だ。試行錯誤しているらしい。そう言えば藤井は橘のことを「高校生ぐらい」と言っていた。年齢の計算を間違っていたのだろう。縞は佐藤が渡した手紙が気になっていたものの、佐藤の話題には触れず橘の大学の研究の話や藤井の話を聞いたりするだけで、30分ほど会話した後そのまま解散した。

 

 

事務所へ戻ると藤井がいた。いつものようにデスクに腰かけ、頬杖をつきながらマウスを操作し、二日酔いのような表情でディスプレイを眺めている。

「戻りました。これ、」

縞は藤井のデスクまで歩き、その上に現金10万円を置いた。

「現ナマかいな」

藤井は驚いた様子もなく札を拾い上げるとその場で数えた。左手の小指と薬指に1万円札の端を挟んで折り曲げ、反対の端を親指と人差指でつまみ、右手で弾く数え方だ。

「ほんで、あんた一人かいな」

「はい、佐藤さんとははぐれてしまって。橘さんにも会いましたよ。さっきまで一緒だったんです。彼、頭いい人なんですね。彼が言ってたこと僕には全然理解できなかったですよ、電力の蓄積量がどうとか」

「アキちゃんのことは知ってんねん、他にないんかいな。なんやったんそもそも、その子はなんやったん。どんな子やったん、結局何がしたかったん、あんた今日泊めるん違ったん?なんで一人で帰ってきてんの」

縞は藤井から出た当たり前の質問に対して、何一つ答えを持っていないことに気付いた。佐藤とはいったい何だったのだろう。事の発端はメールだ。何故縞の会社へメールを送ったのだろう。橘に会うため。直接会いに行けばいいじゃないか。居所を知らなかったのか。それにしても何故メールを。この会社は人探しなんてやっていない。代表者である藤井が橘の知り合いだということを佐藤は知っていたのだろうか。そして藤井に聞けば橘顕の居場所がすぐに突き止められると思ったのだろうか。それだったら藤井に直接連絡すればいい話ではないか。しかし藤井の話を聞く限り、二人は面識が無さそうだ。面識のない藤井に対して直接連絡を入れるよりは、会社を通したほうが話が通りやすいと思ったのかもしれない。だったら佐藤は藤井のことをどうやって知ったのだろう。藤井は人に知られるような有名人なのだろうか。藤井だけではない。会わせた橘の方も面識が無いと言っていた。橘は頭が良く、落ち着いた雰囲気のある好青年ではあったが、熱狂的なファンを集めるアイドルにはとても見えなかった。佐藤と橘の関係は一体なんだろう。むしろ佐藤から橘に対する一方的な関係になるのか。それにしては「アキちゃん」と呼び、感極まって涙まで流し、手紙を渡した上で走り去っていった。そうだ。手紙だ。その答えは全て手紙に書かれていたはずだ。

「アキちゃんに直接聞いてみるわ。あんたほんま役立たずやな」

縞は藤井の容赦無い言葉に少なからず落ち込んだが、それは事実だった。手紙に全てが書かれていたとして、縞が橘に対して「手紙見せてください」などと言えるはずがない。今日初めて会った人間にプライベートな手紙、内容を聞いたとしても教えてもらえないだろう。ここは藤井を頼るしかない。何年も会っていない姉の友人から突然会わせたい人がいると呼ばれ、よくわからないまま駆りだされて見ず知らずの人に引き会わされた。そして手紙を渡され、それで終わりなんてことになるはずがない。橘は手紙に書かれた全てを知り、藤井へ何らかの連絡を入れるはずだ。

「まあ、あんたには教えたらんけどな」

「そらないでしょう」

藤井への報告を終えながら縞は事務所のロッカーへ上着をかけ、自分のデスクへと戻った。今回は一応仕事としての収入があったため、報告書を書かなければならない。何をどうやって書けばいいんだこれは。何一つ答えも出ていなければ解決もしていない。とにかく二人を会わせたというだけだ。10万円は会社の利益として、縞の成果として計上されるのだろうか。レポートを書くということは、そういうことになる。藤井はこれをどう処理するつもりなのだろう。縞はとりあえず今日あったことを一通りメモとしてを残しておこうと思い、スリープ状態のiMacを立ちあげた。新着メールのお知らせ、1件、No subject、

18時座標

佐藤からのメールだ。

縞は藤井に知らせないでおこうと思った。藤井に伝えたら、彼女は今回興味本位だけでついてきそうに思えた。縞は佐藤と一度会っており、次は気兼ねなく会えるだろう。その成果を藤井に横取りされるような気がした。藤井は放っておいてもおそらく橘の報告から答えを知ることになる。だったらここは自分だけで行こう、藤井よりも先に事の真相を掴みたいと、縞は答えを教えてもらえない腹いせに競争心を燃やした。

18時前、縞は早めに事務所を出て京都駅へと向かった。今回は橘を呼べていなくても良かったのだろうか。縞から橘へ名刺を渡したものの、向こうは学生でそんなもの持っていない。縞からは連絡の取りようがなかった。仮にまた二人を会わせたところで、また佐藤に泣いて逃げられては話を聞きそびれてしまう。今回は宿泊所、と言っても縞が住む下のフロアになるが、そちらを紹介することが主題でいいだろう。縞はそのついでに一連の話を聞いてしまおうと思っていた。地下鉄で京都駅へと向かい、地上へ出ると外は少し雨がぱらついていた。縞は座標の位置であるタクシー乗り場の近くまで歩いた。約束の18時まではあと7分あった。座標の場所に辿り着くと、あたりを見回す。周りに佐藤らしき人物はいない。まだ到着していないのだろう。空を見上げると薄暗く、先ほどから降っている雨のことが気になる。縞は傘を所持していない。このまま雨が強くなったとして、自分だけなら濡れても構わないが、誰か人を連れて傘もないというのは相手に悪い。佐藤だって傘を持ってきている風ではなかった。もしかするとこちらで購入しているかもしれない。まだ今のところ傘を差すほどの降り具合ではないから、望み薄か。縞は18時までの間にコンビニで傘を買うか迷ったものの、そのまますぐタクシーに乗ってしまえば特に必要もないかと思い、少しずつ雨に濡れながらもそのまま待っていた。

「シマさん」

縞は肩を触れられた。

「佐藤さん、どちらにいらっしゃったんですか、」

「今着いたところです」

「そうじゃなくて、さっき」

「…ごめんなさい。さっきは。あの後観光してたんです」

観光?一人で?それにしても脈略がなさすぎる。

「そうですか。とにかく、お休みになるところの件でメール頂いたんですよね?」

「そうです、そうなんです今日泊まるところの事、すっかり忘れてて」

「どちらかご希望はございますか?どこでもよければ一箇所ご用意しておりますが」

「そこでいいです。どこだって、大丈夫です」

「かしこまりました。とりあえず、タクシー乗りましょうか。このままだと雨に濡れてしまいます」

「ええ、わかりました」

佐藤は案の定傘なんて持っていなかった。縞と佐藤はタクシー乗り場に並び、すぐに順番が回ってくると黒い車体の地元で有名なタクシー会社のタクシーへ乗車した。

「お食事はもう済まされましたか?」

「食事、はまだです」

「どちらかで食べていかれますか?」

「そうですね」

「何かご希望はございますか?こちらで食べたいものとか」

「希望ですか。ごめんなさい、こちらの食べ物のことあまり存じ上げてなくて」

「かしこまりました。そうしましたら、どうです、これから私も食事を摂るのですが、ご一緒頂けませんか?」

「本当ですか、ええ、喜んで」

縞は事務所近くでタクシーを止めてもらい、歩いて数歩の場所の地下にある、小さな料亭兼居酒屋のような馴染みの店へ入った。この辺りはオフィス街でもないため、平日この時間帯でも座敷が空いている。

「お二人様ですか?」

「はい」

「こちらへどうぞ」

縞と佐藤は奥の座敷席へと通された。佐藤は不思議そうにあたりを眺めていた。

「何か飲まれますか?」

「そうですね、水を一杯」

「水ですか?じゃあ僕はウーロン茶で」

「かしこまりました」

縞はビールを飲みたかったが、ここは相手に合わせて飲酒を控えることにした。

「どうぞ、お好きなものを頼んでください」

縞は佐藤へとお品書きを渡した。佐藤はその一枚の紙をぼんやり眺める。

「あの、」

「はい」

「私、ここの食事本当にわからんくて、選んでもらってもいいですか?その、私何でも食べますから」

「そうですか。アレルギーや何か食べられないものはありますか?」

「大丈夫です」

「本当に何でもいいんですか?」

「ええ」

メニューは特段京都にしかないようなものばかりではなく、どちらかというとありきたりな居酒屋メニューだった。縞はだし巻きと湯葉、蛍烏賊やハモの造り、それからサラダを注文した。同時に水とウーロン茶がテーブルに運ばれた。

「普段あまり外食はされないんですか?」

「外食は多いんですけど、こういうところ初めてで」

「ああ、それは申し訳ございません」

「いえ、全然、ここが悪いとか違うて、ごめんなさい私こそ、世間知らず言うか」

縞はどうやって橘の話へ持って行こうかと初めは考えていたが、会話を切り出そうにもそれ以前の問題だった。選ぶ店を間違えたか。

「お酒は飲まれないんですか?」

「お酒ですか、飲みます」

「え、そうなんですか。ここは焼酎や日本酒なら置いてますけど、どうですか?」

「私、あの種類に詳しくなくて、じゃあ同じのもらいます」

「同じの?」

「はい、何か頼まれるなら、同じのを」

「で、あれば、熱燗頼みましょうか」

「はい、じゃあそれでお願いします」

ほぼ初対面に近い状態で、右も左も分からない若い女性を地下の小料理屋に招き、いきなり熱燗を頼むというのもかなりおかしかったが、それ以上に佐藤の態度は不思議だった。外食が多い、お酒を飲むと言う割にはあまりにも不慣れであり、全て縞の言いなりのまま。若い女性には小洒落たレストランなんかの方がよかったのだろう。しかし嫌がっている様子もあまり見られない。どちらかというと物珍しさからくる好奇と緊張が伺える。

「お寿司は食べられますか?」

「お寿司ですか?多分、大丈夫です、食べます」

「では、後で注文します」

やはりどうも、受け応えが変だ。佐藤の様子からは、メニューにあまり照準が合っていない。名前だけ読んでもよくわからない外国のメニューを前にしたような態度を見せている。先ほどの料理を頼んだ時も、熱燗でさえピンと来ていないのは思い過ごしだろうか。お寿司とは言ったが、寿司ネタに関して何も注文してこなかった。本当に勝手に頼んでいいのだろうか。縞は今まで感じたことのない違和感を頭の中に抱えつつも、何とか本題を切り出そうとした。

「あの、泊まるところなんですけれど、1日でよかったんですよね?すぐ近くなんですけど」

「はい、1日です。あの、一緒に来てもらってもいいですか?」

「は?」

「あの、使い方とかわからへんから」

使い方?何の?オートロックやカードキー等のホテルにあるような設備のことを言っているのだろうか。そういう場所へ泊まるなら通常フロントやホテルマンが案内してくれるが、今日用意しているのはビルの一室だ。オートロックもカードキーも無いが、案内がいない分、鍵のことや部屋のどこに何があってどれを使用していいかぐらいは説明したほうがいいのだろうか。

「大丈夫です。私も同じ建物に住んでいますから」

これは言わないほうが良かったかもしれないと縞は思った。しかしどうせ後からわかることだ。なんせ同じビルに入っていってエレベーターで違う階に降りるだけなのだから。

「良かった。それならお手間とらせませんね」

「はは、でも案内するほどのこともないんですよ。トイレとバスがあって、キッチンや冷蔵庫もご利用いただけます。あとはベッドとテーブル、テレビがあるぐらいで」

「でも、一応お願いします」

「ははは、もちろん」

妙なところできっちりしている。何をそんなに気にしているのだろう。先に部屋へ通して一通り説明してからの方が、食事もゆっくりしてもらえたかもしれない。佐藤が部屋に預けるほどの荷物を持参していなかったためか、縞もそこまで気が回っていなかった。

少しずつ食事も運ばれてきて、それらをつつきながら縞と佐藤はぎこちない会話をしていた。初対面にありがちなぎこちなさというよりは、どうも噛み合わない。縞から他愛のない質問をいくつかするも、佐藤の返答というのはどこか宙に浮いたようなものばかりで、縞は何一つこれといった手応を掴むことができない。本当は何か足がかりを踏まえて橘の話へと移行したかったが、このままでは埒が明かないと思い、ある程度酔も回ってきた縞は思い切って直接切り出すことにした。

「あの、聞きたかったんですけど」

「なんですか」

「橘さんのことなんですけど」

「はい」

「言えないんでしたっけ?」

「ええ…そうですね」

「藤井のことは、ご存知だったんですか?」

「はい、何度かお会いしたことがあって」

それは初耳だ。だったらなぜこの佐藤は藤井に直接頼まず、周りくどいメールを会社に送ってきたんだ。藤井の方だって何も気付いている様子はなかった。しかし実際に藤井が橘を知らなければ今回のことは何一つ進まなかった。佐藤が藤井に直接頼めないような、何か理由があったのだろうか。そして橘だ。橘も藤井も、この佐藤を知っている様子はなかった。佐藤だけが一方的に二人を知っているにしては、少し話が複雑過ぎる。結局縞だけが唯一この佐藤と、紛れもなくお互いに初対面だと言える。この中で部外者は縞だけだ。

「藤井はもう帰宅してますけど、明日会っていきますか?」

「大丈夫です。明日は早いんで」

どうもうまく話を運べない。聞きたいことは何一つ聞き出すことができない。答えたくないと言われている内容をそれ以上掘り下げるわけにもいかず、かと言って二人の間に他の話題があるわけでもなく、縞は観光についての話や京都の印象なども聞いてみたがひどく曖昧な返事が帰ってくるだけで時間は過ぎ、食事とお酒が程よく消費されていった。

「お酒、強いですね」

「そうですね、酵素を持っているから」

「酵素?」

「はい、アセトアルデヒドの分解酵素です」

「そ、そうなんですか。どうですか、日本酒はよく飲まれるんですか?」

「いえ、これは初めて飲みました。シマさんはお酒弱いんですね。顔も真っ赤やし、呂律も回らんようなってきてる」

「ははは、そうですか。これぐらいは、だいたいいつものことなんです」

「いつもですか?毎日なんですか?」

「毎日ではないですけど、お酒飲むときは大体こんなになるんです」

「どれぐらいのペースで飲まれますか?」

「そうですね、週に、5日ぐらい」

「ほぼ毎日じゃないですか」

「あ、でも家で飲むときはこんな飲まないですよ、普段はビールだけとか」

「それでも肝臓に悪いですよ、まだお若いから平気だと思ってらっしゃるかもしれませんけど、一度検査されたほうがいいかもしれません。今後のこともあるから」

「佐藤さんって、お医者さんなんですか?」

「医者?違いますよ、私はただの学生なんで」

「そうなんですか。その服もちょっと医者っぽかったから」

「これですか、これ、変ですか」

「変じゃないですよ、よくお似合いだと思います。僕があまり見たことないだけで、流行っているんですか?そういうの」

「流行ってはないです。これは、ラボのユニフォームみたいなもので」

ラボ、大学の研究室だろうか。研究室に入るのにこんな制服はあるのだろうか。教授の趣味かなんかか。

「あの、そろそろお休みになったほうがいいんじゃありませんか?だいぶ酔いも回ってらっしゃるようで、明日もお仕事でしょうし」

「ああ、そうですね、お気遣いありがとうございます。すみません遅くまで付き合わせてしまって、その前にちょっとトイレに行ってきますので」

「いえ、私の方は全然」

縞は立ち上がる時に少し足がふらついた。いつもに増して酔っているようだ。そのままカウンターで会計を済ませ、トイレへと向かった。便座を降ろし、用を足しながらぐるぐる回る頭のなかで考えを巡らせていた。結局何も聞けずじまいだった。仮にこの場に藤井が来ていれば、もっと隅から隅まで根掘り葉掘り聞くことになったかもしれない。しかし、果たして佐藤がそれを望んでいただろうか。橘に会わせ、宿泊先を手配するという仕事はもう完了している。これ以上詮索しても相手に不快な思いをさせるだけだ。縞はこの食事にて何の成果も得られなかった言い訳を頭の中に思い浮かべていた。

「それでは、行きましょうか。こちらです」

店から出ると、幸いにも雨はあがっていた。縞は佐藤を連れて事務所のビルへと向かった。歩いて1分もかからない。事務所の入っているビルというのはいわゆる雑居ビルであり、お世辞にも見た目がいいとは言えない。縞は歩きながら、鞄にしまっていた佐藤が泊まる部屋の鍵を探していた。

「ここです。外観は汚いけれど、部屋は普通だから安心してください」

「すごいですね。こういう建物、映画で見たことあります」

そんなにひどかったか。しかし佐藤の表情は驚きこそしているものの、怪訝な様子はない。先ほどの店に入った時と同様の不思議そうな顔をしている。縞の日常生活圏が彼女にとっては余程珍しかったのだろう。学生なら確かに、それも女性だったら先ほどのような店やこういった雑居ビルには馴染みがないかもしれない。二人はエントランスから中へ入り、エレベーターのボタンを押した。すぐに扉が開き、二人は中へ入ると、縞が4と5のボタンを押した。

「こちらが部屋の鍵です。外出されるときは持ち歩いてください。4階のエレベーターを出たすぐの407号室をご利用頂くことになります。」

縞は佐藤に鍵を渡した。エレベーターのような狭い場所に入ると、明らかに酒臭かった。エレベーターはすぐに4階へと着き、ドアが開いた。

「出る時は鍵を部屋に置いといてもらって構わないんで、好きな時間までいてください」

「はい、わかりました。それで、部屋の方なんですけど、」

佐藤はエレベーターを降りない。縞は部屋の案内を頼まれていたことを思い出した。縞が先にエレベーターを降り、佐藤が後に続いた。縞は廊下を歩いたすぐそこにある407号室の前に来た。

「こちらです。少しお借りしていいですか」

縞は佐藤から鍵を受け取るとドアノブに差し込み、回転させて鍵を開け、鍵を引き抜くと左手でドアを開け、右手を部屋の中へと差し出した。

「どうぞ」

「お、お邪魔します」

ドアを開けると玄関の照明が自動的につくようになっている。佐藤が中に入り、縞はドアを閉めると廊下の奥にある居室へと進み、部屋の電気をつけた。その後に佐藤が続いた。

「部屋は、この通りです」

ホテルの一室ほど綺麗ではなかったものの、縞が事前に掃除をして風通しを良くし、洗いたてのシーツと毛布を用意した部屋はこざっぱりとしていた。消臭も兼ねてか、微かにフレグランスの香りがする。縞は居室から廊下に戻り、左に逸れると電気をつけた。佐藤も追いかけるように後に続く。

「こちらが洗面所、奥がトイレで右手が、バスになります」

縞は説明しながら風呂場のドアを開けた。

「あの、変なことを聞くんですけど」

「はい」

「これ、どうやって使うんですか?」

佐藤は洗面所を指さした。洗面所はレバーを上げると水が出るものだった。左右にひねると水の温度が調節できる。

「どうって、上げるだけです」

縞はレバーを上げて水を出してみせた。佐藤は少し感心している様子だった。初めて見たのだろうか、レバー式。

「おー、じゃあこっちは?」

佐藤はトイレを指さした。

「えっ、トイレですか」

二人はトイレに近寄った。

「トイレは、使用した後ここを押すと水が流れます」

縞はトイレのフタを開け、タンクの上にあるメッキの部分を押し、水が流れる様子を見せた。佐藤は水が流れる時に少し驚いた。

「シャワーもお伝えしたほうが、いいですよね」

「はい、お願いします」

縞は風呂場の前にある給湯パネルの電源を入れた。

「こちらでお湯の温度を設定します。お湯を溜める場合はこの風呂自動を押すだけでお湯がいっぱいになったら勝手に止まってくれます」

「へえー」

「それぐらい、ですかね」

「ありがとうございます。こういうの慣れてなくて」

「そうですか、もしまた何かわからないことがあったら連絡ください」

縞は名刺を差し出した。

「それでは、今日はもう遅いんで、失礼します。どうぞごゆっくりおくつろぎください」

「あ、はい、本当に今日はどうも、ありがとうございました」

「いえ、こちらこそ」

二人は互いにお辞儀を交わし、縞は407号室から退出した。そのままエレベーターへと向かい、5階の自分の部屋へ帰った。縞はもう酒の酔いから覚めていた。落ち着くと、何も聞くことができなかった事実だけが改めてのしかかる。今日はいったい何をやっていたのだろう。そんなことを思いながら着替え、ベッドに横になった。

 

 

縞の朝はいつもの通りメールチェックから始まる。新着メール、無し。珍しいこともあるもんだ。新聞は休刊日だったのか。

藤井はまだ事務所に出社していない。彼女に出勤時間という概念はない。経営者であり、尚且つ外出も多いため朝の時間に顔を出さないことは日常的にある。それでも1日に1度は必ず出社しているため、縞の外出と被らなければそのうち会うことになるだろう。今のところ縞に外出のスケジュールはなかった。

縞は昨日の報告書の続きを書くことにした。ほとんどは昨日のうちに終わらせており、あとは昨日の夜に詳細を聞いて書き足すつもりだったのが、あてが外れたために何ら書き足すこともなく、残りをただの完了報告として書き終えた。ものの数分。次に縞はwebサイトの更新及びメンテナンス作業に取り掛かった。アクセス解析の確認、アップデート作業、こちらも特にやることがなく、忙しいわけではない。元々縞はこの事務所に、webの製作ができる人として雇われた。以前、webの委託業者に藤井がwebサイトの新規構築及び運営を依頼していたものの、折り合いがつかずにそのまま放置されていた。そこで社員として雇ってしまおうということになり、藤井の友人であったデザイナーから、ちょうどwebデザイン教室の受講者であった縞に声がかかった。元々そのデザイナーに声がかかったのを、うまく縞へと流されたのだろう。求職中であった縞としても悪い話ではなかった。社宅付き、服装自由、勤務時間の規定無し、最後はちょっと危ない気もしたけれど、自ら就職活動せずとも舞い込んできた話に無職の人間が飛びつかないはずはなかった。それも講師の紹介。

結果的に見てもそれは、縞に悪い話ではなかった。入社当初はwebの構築を一から始めるために忙しい日々となった。縞は講習に通っていたほどだから実務経験はなく、言うならば素人だった。そして藤井に関してはその方面をまるで解さない。藤井の希望内容と摺り合わせだけ行い、実務は縞が全て行う。縞は図書館に通いながら初心者向けの技術書を読み、藤井に費用の見積書やデザインの原案を見せながら話を進めていく。藤井の方からはあまり細かい指示は出なかったが、この会社と、webページで何を目的としているのか汲み取るのがかなり難しく、製作は難航した。おそらく業務委託を受けていた業者もここで音を上げたのだろう。この合同会社籐千(トーセン)というのは不明であった。

主たる業務は投資業とある。第三者へ金融商品をパッケージ販売しているような金融商品取引業者ではない。ヘッジファンドのような大袈裟なものとも違う。そして縞はその運用業務について全くタッチしていないため、詳しくなかった。おそらく藤井が会社の名義で個人的に資産運用などをやっているのだろう。縞も藤井から会社の調査を頼まれることはあった。ファンダメンタルズ、というよりは実地調査のような形で調査対象の会社に客として出向いたり、営業のふりをして足を運んだり(実際に営業もしていた)、帳簿には現れない会社の雰囲気や管理体制などの、本音と建前で言えば本音の部分を探り、報告する。中には電話交換手を雇うだけで実態のない企業や、登記先の本社所在地に別の会社が入っていたり、その上で移転申請もされていなかったりと、web製作だけやっていればいいと思っていた縞からすればよくわからない仕事にまでいろいろ駆り出される。会社の業務とwebの方向性がいまいち見えないまま、とにかく縞は会社概要と連絡先、あとは業務報告を公開するページだけ立ちあげ、様子を見ることにした。藤井からは「なんでもいい」と判を押され、その割にデザインに関して口出しが細かく余計に困った。webの内容については、縞が仕事に取り組むに連れて徐々に拡充していくことだろう。

時間は昼になった。縞は朝に向かいのコンビニで買ったパンを冷蔵庫から取り出し、電子レンジで暖めつつ、コーヒーサーバーでコーヒーを注いだ。

「おはよう」

藤井が出社してきた。スーツではないものの、シャツの上にジャケットを羽織り、足のシルエットを写したグレーのくるぶし丈のパンツ、オフィスカジュアルというやつか。藤井はだいたいいつもそういう格好をしていた。いつでも人前に出られる服装。縞の方は事務所のロッカーにジャケットをかけっぱなしにしており、普段はTシャツ、デニム、パーカといった部屋着のような格好で来ることも珍しくなかった。

「おはようございます」

縞はパンとコーヒーを自分の机に運びながら藤井に挨拶を返した。藤井は縞の後にコーヒーを注ぐと、奥へ進み自分のデスクに座った。今起きたという感じではなく、午前中一仕事終えて戻ってきた様子だった。藤井はコーヒーを飲みながらパソコンを起動していた。縞はパンをかじりながらネットを見ていた。それは二人が事務所内で昼休みを過ごす時の、いつもの風景だった。

「そう言えば、あの子どうしたん?」

「あの子?」

「あの子やんか、昨日の」

佐藤か。あれ、本当にどうしたんだろう。縞は半ば佐藤のことを忘れていた。縞の中ではもう帰ったことになっていた。

「もう帰ったんじゃないですか?」

「ほんまに?色々聞きたかったんやけどなー帰ってしもたんか」

「どうしたんですか、急に」

佐藤の一件についてあんなにも興味無さそうだった藤井が自分から食いついてくるということは、何か思い出したのだろうか。

「アキちゃんから聞いてん、あの子、未来から来たらしいな」

「は?」

藤井も半ば笑いながら漏らしたその言葉に対して、縞は聞き返すことしかできなかった。

「いやほんま、は?やで。昨日アキちゃんから連絡あって、君が会うたアキちゃんや。手紙もうたけど何書いてあるか読めへんって、あの子理系で大学もセンター試験すっ飛ばして二次科目だけで通ったような子やから文系科目は全然あかんって姉ちゃんも言うてたし、しゃーないなー思て手紙見してもうたらほんまに何書いてあんのかわからんねん。あれ日本語やけど日本語ちゃうで。言葉は一応日本語やからわかるけど、解読せなあかんねん、何が言いたいのか」

佐藤の手紙か。確かに佐藤のメールは変な日本語だったけれどそこまで言うほどではないだろうと縞は思いながら口には出さなかった。

「ほんでやな、その内容もぶっ飛んでたし、アキちゃんはきっと未来から来たとかわけのわからんこと言うし、ちょっとこら直接話聞かんとあかんなー思ててんけど、あんた逃したん?昨日会うててんやろ?」

藤井は佐藤とのメールや宿泊の件を知っているようだ。

「逃したも何も、昨日1泊してそれで終わりですから」

「縞くんはあの子からなんも聞いてへんの?」

縞は触れられたくない部分に触れられ、じっと黙ってしまった。

「あんたほんま役立たずやなー、何してたん昨日一日」

縞はこんな風に言われるのが癪で、昨日の夕方以降も一人で行動していたにも関わらず、結果的に佐藤からは何も聞き出せなかったどころか、藤井経由で詳細を聞くことになり、その上佐藤がもういないことについて文句を言われる羽目になった。もういない?本当にもういないだろうか?もしかしたらまだ407号室にいるかもしれない。鍵はそのままでいいと言ったものの、必ずしも出ているとは限らない。

「ちょっと、昨日貸した部屋掃除してきますね」

縞はそう言うと藤井の返事も聞かず事務所を出てエレベーターに乗り込んだ。4を押す。2階から4階に着くと、すぐそこの407号室のインターフォンを押した。しばらく待ってみたが誰も出ず、ドアを直接ノックしてみた。やはり誰もいる様子はない。ドアノブを回すと開いており、ゆっくりドアを開けた。

「佐藤さーん」

玄関の横にある下駄箱の上には、この部屋の鍵が置かれていた。予想通り佐藤はもうこの部屋にはいない。藤井に対して何も言い返すことができないまま、今回の一件は佐藤が帰ったことによって完全に幕を閉じた。この一件について、これ以上新たな情報を得ることは無いだろう。縞は佐藤の手紙のことを思い出した。そこに全ての答えが書かれているはずだった。それが、未来から来た?あまりにもバカバカしく、冗談として笑う気にもならなかった。縞はふと、アキちゃんこと橘顕の言葉を思い出した。

「なんか、また会いそうな気がする」

その時感じた違和感が何だったのか、今なら説明することができる。縞は独り言のようにつぶやいていた。

「そういう時は普通、『前にどこかで会った気がする』だよな」