関西人というだけで…

自分で言うのもなんだが、けっこう面白くない人間である。全然面白いことが言えず、果敢に笑いを取りに行こうものなら失笑を買うだけ、そんな勇気はもはや、小学生の高学年に上がる頃にはなくしてしまい、真面目路線を走ることになった。僕は京都で生まれ育ち、社会人になってからも大阪で働いていたから、いわゆる笑いがコミュニケーションの中心となる関西での生活が長い。しかし、うちの親や親族なんかも全然面白くない。信じられないぐらい笑いのレベルが低く、一番身近にいた人たちがそうだから、自分が面白くない理由は彼らのせいじゃないかとさえ思えてくる。結局、多少なりとも鍛えられる環境というのは家の外にあった。主にテレビ。それはそれでままならなかったが。

それから転勤があったり、会社を辞めたあとに関わってきた人たちは主に関西圏以外の人たちだった。圏外の人と話していると、ときどき自分が面白い人ポジションだと勘違いされることがある。というか結構あった。「やっぱ関西の人ですね」なんて笑いながら、本当は面白くないけど、そういう役を演じてくれているのだから愛想笑い、今までそういう憂き目にどれだけ遭ってきたか。地味につらい。僕は決して面白い人ではないし、そんな面白くない人が無理しておもしろ人間を演じているから愛想笑い、をしてくれる優しさは十分にありがたいんだけど、実はそういうのじゃないんですよ。

お笑い文化は笑うための文化ではない

笑いをコミュニケーションの中心に置く文化というのは、関西圏における標準的な作法でしかない。実際に面白いかどうかに関わらず用いられる。だから面白い人ポジションとかウケを狙っているとか、そういうのは全然関係ない。それ以前にある口語文法、日本語文化の体系の一つに過ぎない。全員がやる。こう来たらこう返す、こう被せてこう放り込む、それは笑わせるためのやりとりではなく、ただのコミュニケーション手段なのだ。「笑わせたら勝ち」ではない。会話をするために言ってるだけで、笑わせるために道具を駆使しているわけではない。笑いを中心に置くと言ったが、それは飽くまで土台であり、軸という意味だ。目的ではない。笑いありきの会話なのである。面白くないことも笑いに変える。だから、

何か言葉を発する

あ、これ面白いこと言おうとしてるんだ、笑わなきゃ「あはは」

終わり

これをやられるとつらい。そうじゃない、そうじゃないんだよ。そんな無理に愛想笑いをしたり「やっぱ関西の人なんですね」なんてフォローする必要はない。乗っかってきてくれたらやりやすいことは確かなんだが、別の方言を話すようなことになるため、染み付いていなければなかなか上手くいかないだろう。かと言って自分が相手に合わそうとしても文法のクセが自然に出てしまう。相手からすれば「やたらめったら笑わせようとしてくる」という印象しか持てず、どうしていいかわからないからひとまず愛想笑い、となってしまう。結果的に日本語の会話が噛み合わない。言葉のキャッチボールがうまくできないのだ。

もっとつらいのは、「俺の方が面白いんだぞ」と言わんばかりに乗っかってくる人。我々はお笑い力を競っているわけではないから、当然キャッチボールとして受け返すと、やっぱりそこから先は何も続かない。もしくは受け取りようも返しようもないボールを一方的に投げられて自己完結されてしまう。こちらからすればコミュニケーションを取っているつもりが、相手にはお笑い選手権に受け取られてしまい、乗っかってこられたところで「俺の負け」「俺の勝ち」みたいなわけのわからないことになってしまう。

しかし一番つらいのは、真に受ける人。真面目に返答したり怒ったり泣き出したりとか。これは非常に難しいところで、投げるボールが悪いことも大いにある。こういうときに我々は「頭が悪い」「失礼だ」「下品だ」といったそのままの評価を受ける。そして我々の方は相手に対して「ウィットに欠ける」「ユーモアに欠ける」「センスに欠ける」などと評してしまう。これは単に、お互いの文法が噛み合っていないだけなのだ。

意思疎通を行うためには

関西からお笑い文化圏外に出て間もない人は、おそらくこういった齟齬に直面していることだろう。そして関西人を受け入れる圏外の人からすれば「いつも笑わせようとしてくるうっとうしい人」という風に映っているに違いない(人間関係の距離が遠いと、あまりそういうコミュニケーション手法を採らないことも多いが)。この行き違いを打開するためには、二つの方向しかない。一つは、関西人が相手に合わせること。ほとんどの人は数年単位の時間をかけてその地域に馴染み、関西人の文法を封印してしまう。そのうち関西弁を話すこともなくなる。

僕はずっと京言葉(ゴリゴリのあれではない)を話してきたが、関西人同士で話したときに限りこのキャッチボールが噛み合うため、真の意味で「今地元の言葉で会話してるなあ」という気持ちになる。京都での生活が長かったため、外で出会う同郷の人をすぐ認識できるようになった。他の地域の人とは違う「京都人らしさ」を発見することになった。言葉遣いや言い回し、距離の取り方でだいたいわかる。それに触れたとき、郷土とそこにいる人たちの懐かしさを感じる。

さて、もう一つの方向はと言うと、めちゃくちゃ頑張って面白い路線を極めること。それまでのように普通の人が面白いことを言うのではなく、本当に面白い人になってしまうという方向がある。キャラ付けを定着させてしまうことで、そこからのコミュニケーションを始める。これはある種茨の道であり、常に面白くあることが重要になってくる。当然ながら関西人だというだけで面白いわけはないから、本当に面白い人を前にするとかなわない。

だからこの選択は、今後面白い人であり続けるという生き方を選ぶ、おもしろ宣言である。故郷を失わずにすむ反面、戦いの日々が始まる。同時に、これは意思疎通の放棄とも言える。会話の上で相手に笑いを求めてはならない。常に笑いを提供する側に立つことになる。この道を選んで一方的に笑いを提供し続けた後に起こる、関西人同士の掛け合いを体験したときのカタルシスは相当なものだろう。同志ここに得たりと言わんばかり。

我々関西人には、故郷から一歩外に出ることによってこのような葛藤が待ち受けている。これまでの慣習とこれからの生活に向き合い、選択が迫られ、どちらを選ぶにしてもこれまでのようにはいかず、行く先々に溶け込んでいかなければならない。頑張れ関西人。