芦田愛菜の「信じる」うんぬんかんぬん

すごく普通のこと言っていて何の感想もない。強いて言えば、芦田愛菜のすごいところは、こういう考え方ができることじゃなくて、それがイベントの登壇でとっさに出てきて話せたことだと思う。考えている内容そのものは凡庸。

僕はあまり人を信じたりすることがないから、「信じる」とか「裏切られた」とか言う人の気持ちが全然わからない。そういうことを言う人は、そのときたまたま頭が悪かったからしょうがない、としか思わない。

だいたい「信じる」というのは無責任な行為だ。「あなたに任せたから、信じたから」と言って相手に責任を押し付け、自らは考えたり責任を負うことを放棄している。人を「信じる」ということは、極悪非道だと言っていい。芦田愛菜が言うように、「あなたの失敗も受け入れる」というのであれば、真に相手を信頼することになる。その場合、何があっても「裏切られた」などという言葉は出てこない。

例えば、選挙に投票するとき、投票先の候補を信じてはいけない。候補者が適性であるか否かを、自分で見抜かないといけない。掲げている公約を本気でやるつもりがあるだろうか、それにあたっての知識や経験は足りているだろうか、周囲の人員は揃っているだろうか、準備ができているだろうか、候補者を信じるのではなく、その人に投票していいかどうか、自分で判断しなければいけない。判断を見誤って、当選者が公約無視をすれば、それは当選者の裏切りではない。判断を見誤って投票し、当選させた自分の責任だ。

もっとプライベートな話だと、「裏切られた」という言葉は一体どういうシチュエーションから出てくるだろう。僕は人生で一度も使ったことがない。バナナマン日村がダイエットをしているのにご飯を食べて、奥さんから「裏切りだよ」と言われていた。これは戒めの言葉でしかないと思う。奥さんはその後もバナナマン日村の性格を見直し、ダイエットをどう進めていくか計画の改善を図っている。そこに「信じた」「裏切られた」のやりとりはない。

人間関係は、そういう予想の当たり外れを繰り返して、互いの理解を深めていくものではないか。予想が外れたからと言って「信じた」「裏切られた」のやりとりをしていては、そこで終わってしまう。「信じる」は押しつけであり、関係性構築の放棄に等しい。