2024.2.15

ここ数日は、ひたすら写真集のことばかり調べ倒していて、けっこううんざりしてきた。一つのことばかりやっていると飽きてくるというか、考えるのが嫌になってくるというか。写真とか、見てもあまりよくわかっていない。いいとされる写真があり、その解説も山程あって、それらを見たり読んだりしながら、なるほどとか、まあそんなもんかとか、いいなあと思いながら見ているけど、それが続くとだんだん疲れてくる。まだまだ参照する資料はあるんだけど、考えるのもめんどくさくなってきて、何でこんなことやってるんだろうとか思えてくる。

ただまあそういうことを続けているからこそ、有無も言わさずいいものを見つけたり、点と点が繋がったなあと思うこともある。自分の内面に行き当たったというか、そういうことが出てくるから、全く意味がなかったというわけでもないのだろう。

これは「失われた時を求めて」で言われていたことだけど、芸術というのは自分を映す鏡であり、芸術を通してその先で行き当たった自分の姿に感動する。芸術そのものはそのきっかけを誘発する装置の役割を果たしている。そこに何かあると思わせるもので、実はそれを通して自らの内側にあるものを引き出してくれるのが芸術の効能だとかなんとか。

例えば僕が過去に撮った写真が一枚ある。これはたまたま撮っただけの写真で、この写真がどうだってその物語みたいなものは何もないんだけど、なんとなく気に入っている特別な一枚となっている。僕がこの写真を撮ったのは確か2016年で、その当時の自分の情念みたいなものが込められているような気がする。実際は何気なく撮っただけの写真だけど、この当時の僕はずっと、こういうものを追いかけ続けていた。そのことが今見ても思い出せる。

これは僕が撮った写真だから、僕自身の気持ちが引き出されるのは当たり前のことで、汎用性のあるものではない。でも人が用意したものが、自らの内側に入ってくることも大いにある。心を扉を開くとか、感動とかそういうやつ。それが芸術と呼ばれるようなものの一つの形なんだろう。

ただ僕はそのセンサーが鈍いため、見たり聴いたりしてもあまりよくわからないことが多い。いろいろと時間がかかる。一見一聴ではなく、時間をかけてそこまで引っ張っていってくれる小説という媒体に、結局のところ一番馴染んでいる。