「スプートニクの恋人」感想・書評

「スプートニクの恋人」を再読した。ああ、このパターンかと初めに思った。「スプートニクの恋人」を初めて読んだのは大学生のときで、話の大筋は記憶していた。そのあと村上春樹の小説をいろいろ読んでから改めて読み返すと、新鮮な気持ちで、ある意味使い古された視点からこの本を読むことになった。

一人の男性が一人の女性を失う物語である。現実がいつの間にかファンタジーと交じり合う物語である。これだけで「国境の南、太陽の西」「海辺のカフカ」「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」「ねじまき鳥クロニクル」と被る(他にもあるだろうけど今は思いつかない)。「スプートニクの恋人」が他の物語と違うのは、失われる女性のことを事細かに書いたところだった。彼女がどういう人間だったのか。何を抱えていたのか。彼女自身の口からも、彼女が残した文書からも語られている。「すみれ」というモーツァルトの歌曲から名付けられた女性を中心とし、彼女を失ったKという男性の物語。感想は「スプートニクの恋人」とその他村上春樹小説を読んだ前提で書いています。

スプートニクの恋人 (講談社文庫)

スプートニクの恋人 (講談社文庫)

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「あちら側」と「こちら側」

それでは衝突を避けるためには、わたしたちはどうすればいいのだろう?論理的に言えば、それは簡単だ。夢を見ることだ。夢を見つづけること。夢の世界に入って出てこないこと。そこで永遠に生きていくこと。p251

この小説には「あちら側」と「こちら側」という表現が出てくる。「あちら側」とはファンタジーの世界で「こちら側」は現実を示唆している。すみれの母は幼い頃に亡くなっていたが、すみれは夢の中で何度も「あちら側」の母と対峙していた。すみれが幼い頃に飼っていた猫は、木に登ったままいつの間にか姿を消した。つまり、「あちら側」へ行ってしまった。

ミュウについて

すみれが強く惹かれた女性であるミュウは、結果的にすみれを「あちら側」へいざなうことになった。すみれが何故ミュウに惹かれたのかはよくわからない。作家になろうとして行き詰まっていたすみれが、ミュウの向う側にある世界(それは本人が予期していたものと違ったかもしれない)に惹かれたのか、それとも単純にミュウという人物そのものに惹かれたのか。

ミュウという言葉を見て最初に思い浮かんだのは高校数学に出てきたμだった。意味を全然覚えていないから検索してみたら平均だった。物理で摩擦係数を表すのもμみたいで、どっちの記憶か定かではない。この小説に出てきたミュウがμを意味するのかどうかもよくわからないが、ミュウと聞いて他に思いつくことがない。平均も摩擦係数も全然当てはまるとは思えない。

記号を別にして、ミュウという人物は「あちら側」と「こちら側」に分離してしまった人物として登場する。ピアニストを目指しながらも行き詰まっていたミュウは、過去のある日を境に実体を亡くしてしまう。髪は白くなり、ピアノが弾けなくなり、性欲、というよりはそういった機能を失ってしまう。そういった要素を持つ「あちら側」の自分と、現実にいる「こちら側」の自分に分かれてしまう。現実のミュウは不完全な形ではあるが、その後も意思と記憶を持って生き続け、すみれと出会うことになる。

記号にこじつけようと思えば、すみれやKと関わるミュウは「あちら側」の実体でも「こちら側」の抜け殻でもない平均値(μ)という風に見れなくもない。すみれがいなくなり、Kと別れたあと「こちら側」に残ったミュウはもはやμでもなく、完全に実体を失った抜け殻として描かれている。

ミュウは役割は違えど「ねじまき鳥」の間宮中尉のように「あちら側」と「こちら側」を行き来している。また、ミュウの分離をショックからくる病理的なものととらえるならば、「ノルウェイの森」のレイコさんと非常に似通っている。中年であること、ピアニスト志望からの抑圧と挫折、性的なトラウマによる心神喪失など共通点が多い。

ギリシャについて

この本では一部ギリシャを舞台にしている。このギリシャの描写を読んでいて真っ先に思い出したのが「遠い太鼓」という村上春樹の紀行文だった。あの時点ではおそらく「スプートニクの恋人」なんて構想はなかっただろうから、後から「スプートニクの恋人」の舞台としてギリシャの島を選んだのだろう。どちらかしか読んでいない人がいたら、両方読んでほしい。まるっきり同じではなかったかもしれないが、どう読んでも「遠い太鼓」で滞在していた島から引っ張ってきてるなーと感じる。

遠い太鼓 (講談社文庫)

遠い太鼓 (講談社文庫)

すみれは帰ってきたのか

「スプートニクの恋人」の解釈を見ていると、電話ボックスから電話をかけてきたすみれは「ノルウェイの森」の渡辺くん(主人公)であり、ミュウはすみれの母親だとか、最後にすみれは帰ってきたとかいろいろな解釈があった。個人的に最後のシーンには違和感があった。その描写がとても「こちら側」のものとは思えなかった。最後の夜は、ギリシャで体験したあの夜の山のようにしか見えなかった。すみれは帰ってきたのではなく、「あちら側」の電話ボックスから電話をかけ、主人公をいざなっているように感じられた。にんじんとその母親であるガールフレンドとの出来事も、「あちら側」への旅立ちに向けた精算のように思えた。

他の作品と比べて

冒頭で他の作品と被るということを書いた。そして以前にも同じようなことを書いたが、この「スプートニクの恋人」も村上春樹小説の定番だと言える。一人の男性が一人の女性を失うというベースがあり、「世界の終わり」は「こちら側」を諦め「あちら側」で添い遂げる物語だった。「ねじまき鳥」は「あちら側」から女性を取り戻す物語だった(女性を「あちら側」へ引き込んだのは明確な悪意として描かれていた)。「国境の南」は「あちら側」へ行ってしまった女性を完全に失う物語だった。「スプートニク」はというと、「あちら側」へ行ってしまった女性を失い、追いかけていってしまう物語に見えた。 f:id:kkzy9:20161205024214p:plain

これらの物語に登場する男女は年齢も生い立ちも状況も全て異なるが、同じ人物のように見える。同じ一対の組み合わせが「あちら側」と「こちら側」をあらゆる世界で行き来する。村上春樹の小説はそういった同じ人物たちの並行世界の物語ではないかと感じられる。もしくは、同じ物語を違う角度から何度もやり直す、その側面をそれぞれの物語で描いているように見える。村上春樹は意味とか考えずに読んで欲しいと公式にコメントしているらしいが、どうしてもそれを理解しようとしてしまう。