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2017年からの未来予想図【人間関係編】

何が正義で何が悪であるかという社会通念は、これまでにころころと移り変わってきた。昔は正義だったことが今は悪となり、今正義であることが昔悪だったこともある。例えば、仇討ちは昔正義とされてきたが、今では良しとされない。同性愛が認められていた時期もあれば、禁止されていた時期もある。今は認める方向に進みつつあるが、地域や宗教によってはいまだ禁止されている。

こういった正義であったり悪というのは、その時代や文化に応じた社会通念によって決められてきた。それが法律となったり、戒律となったりしてきた。それは正義や悪といった社会通念が、必ずしも絶対普遍のものではないということの証明でもある。では、これからそういった社会通念はどのように移り変わっていくだろうか。今悪とされているものが今後正義となり、今正義とされているものが今後悪となるような物事は、どういったことだろう。

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浮気・不倫は今後認められていく

現代では結婚している人の不倫が問題となり、ニュースにあがったりしている。結婚している人の浮気や不倫は民法上の不法行為にあたるため、民事訴訟の対象になることから「不倫は悪である」という認識の元にこういったゴシップ報道がおこなわれ、まるで犯罪者かのように扱われている。しかしこういった傾向は、今後ますます薄れていくだろう。そもそも婚姻制度や離婚についての重要度意識が、過去に比べ相当薄れている。結婚や離婚が重要でなくなればなくなるほど、浮気や不倫の重要度も相対的に下がってくる。

現時点であっても浮気や不倫は当事者間の問題であり、周りの人間がごちゃごちゃ言う筋合いはないんだけど、今後は当事者間であっても相手の素行に対してごちゃごちゃ言う筋合いはない、という認識が広がっていくだろう。自分は自分であり、相手は相手であって、相手が何をどうするかは自分が決められない。それを約束で縛るというのが婚姻という契約になるわけだけど、人間関係はビジネスじゃないんだから、そんな契約関係は本来必要ない。そもそも相手の素行を縛ろうとすること自体が、個人に備わっている自由意志の侵害にあたる。どうしても縛りたければ、それは当事者間の人間関係で行うことであり、法律に則った契約や、他人を巻き込んだ社会通念なんかで行うことではない。昔は家制度や宗教観が個人よりも強かった。

自分にも相手にも、個人としての自由意志がある。その大前提をしっかりと認識しなければならない。だから個人が誰と浮気をしようが不倫をしようが、その人の自由であり意思だ。それを別の人間がとやかく言うことは、本質的に無意味だ。それは相手を信じるとか信じないとかそういった話ではない。例えば、相手を自分の意に沿うように仕向けたいのならば、そのための努力をしなければならない。それは相手を縛るのではなく、相手の自由意志を自分の意に沿う形に仕向けるということだ。相手に自分の方だけを向いてほしければ、相手が自分の方だけを向くように自分が努力しなければならない。相手は自由意志を持った人間なのだから、何一つとして強制することはできない。他人の意思を強制するなんていうことは、隷属に近い。

今後今以上に結婚観がおおらかになり、制度が変わって北欧やフランスのように事実婚が普及していけば、個人の意志を尊重する風潮も広まってゆくだろう。そうなればもはや浮気や不倫で騒ぐような時代ではなくなる。子供の問題も夫婦間の問題とは全く別物として扱われるようになってくる。現にそうなっている社会が既にあるのだから。

児童性愛は当分認められないだろう

児童性愛を認める認めないという議論の中で、よくが同性愛引き合いに出される。同性愛と同様に児童性愛も認めるべきだという意見が出されるが、そもそも同性愛と児童性愛では基準が全く異なるため、引き合いに出されること自体よくわからない。児童性愛は暴力であるという認識が一般的だ。過去において公に認められていた時期もあるかもしれないが、それは児童労働と同様に、児童保護育成の概念がなかったからだろう。現代でもイエメンのように、年齢差の著しい婚姻が存在する。

児童性愛の問題は、児童側における責任能力のなさに大人側がつけ込むという部分になる。精神面と肉体面において未熟な年齢の人間が、成熟した人間と性愛関係を結ぶということが、子供に対する大人からの一方的な暴力にあたる。現代でも日本の女性は16歳から結婚が可能だが、青少年保護育成条例の対象は18歳未満であり、婚姻関係さえあれば16歳17歳でも対象にならないのは、単に慣習と制度上の食い違いなのかよくわからない。16歳17歳を児童性愛(ロリコン)とは分ける考え方もあるかもしれないが、一般的にはどうなのだろう。よく知らないが、ここではとりあえず青少年保護育成条例の対象をロリコンと考えるなら、矛盾しているように感じる。

今後もし、児童性愛が認められる方向があるとすれば、心身における責任能力のある無しを年齢で区切らなくなったときだろう。人間には統計的な傾向はあるものの、個人差がある。幼くして精神年齢が高く、責任能力が十分認められる人もいれば、年齢を重ねても到底責任能力があるとみなせない人もいる。身体の成長速度にしたって個人差がある。だから今後、年齢といった一元的な基準ではない形で、責任能力を測定したほうが合理的であるような社会になれば、現在の年齢だけで区切る児童性愛を禁止する方向性はなくなるかもしれない。しかしそれでも、年齢にかかわらず責任能力のない未成熟な人間を対象とするのが児童性愛であるとすれば、それは価値観が大きく変わらない限りずっと悪として残り続けるだろう。

親孝行は悪になる

ここで言う親孝行とは、子供が親のために尽くしたり、親の言うことを聞くことを指す。子が自らよりも親のために尽くしたり、親の言うことを無条件に聞くのが正義とされた時代は、既に終わっている。では今の時代の正義は何かというと、親は子供をサポートし、子供は自ら考え、仰ぐべき意見を選ぶのが正義となっている。子が仰ぐべき意見を選ぶために親がサポートするのは正義だが、それは飽くまで親の基準ではなく、子の適性、子の時代背景といった子の基準で行わなければならない。いわばマネージャーである。そして親は、未成年の子に対する責任はあっても、見返りを求めてはならない。これは単に甘やかすという意味ではない。より活かすための監督責任だ。

過去においては親が絶対であった。特に家父長制が生きていた時代は、父親が家庭における主役であり、絶対君主だった。家庭における親孝行も絶対的な正義だった。それは今後逆転するだろう。子が絶対となる。今はちょうど中間の過渡期ぐらいか。この背景には、まず単純に年齢別人口比率の逆転がある。昔は子供が多く、若年人口も多かった。今は出生率も低く、高齢者の人口が多い。昔に比べて今の子供のほうが、社会全体における希少価値が高いのだ。例えば男性より女性の方が多い社会であれば、必然的に男性が大切にされるだろう。それと同じ。

もう一つ理由として大きいのは、親の言うことがあてにならなくなったこと。社会変動のスピードは過去に比べ一段と増しており、親の時代の常識、知識、価値観、教訓などは役に立たないどころか、子の時代においての弊害にさえなり得る。そうなったとき、親の言うことを聞くのは子にとって害悪でしかない。子は自ら考え、時代を読み取り、情報源を選択して判断していかなければならない。中には親の意見が正しいケースもあるだろう。親が必ずしも古い価値観に縛られ、時代の流れに取り残されているとは限らない。しかし、それを選び判断するのは子自身の意思決定となる。親の意見が正しければ、それを子に強いるのではなく、子が正しい意思決定をできるように導くのが親のマネージャーとしての役割となる。

親子といっても、幼子であったりすれば親の影響を受けざるを得ない。子が若ければ若いほど判断も意思決定も難しく、親の果たす役割は大きくなる。しかし世の中には、子が成人してからも親の支配下に置くケースがある。親を敬い、親孝行が奨励される風潮は、子の親に対する愛情というよりも、慣習、常識として残っている。それが今後は逆転するだろう。子は親に産んでもらったという一方的な恩から解放され、親が子をに対し、生まれてきてくれたことに感謝し、恩を持つ時代になる。これまでに存在した子の親に対する「産んでくれてありがとう、育ててくれてありがとう」という親子間の関係は、親の子に対する「生まれてくれてありがとう、一緒に生きてくれてありがとう」という関係になる。なぜなら子供は希少価値が高く、子供を持つこと自体が大変で、一部の人間にしか産み育てる、子孫を残すという経験ができないからだ。ただ、子供をたてまつるとかそういったドロドロしたものではなく、親子関係そのものは今後よりフラットになっていくだろう。