岩波青版のかなり古い本「写真の読みかた」。書かれたのは1963年、著者は名取洋之助という報道写真家、編集者。ドイツで報道写真家としてキャリアをスタートし、報道写真という概念を日本に持ち込んだような人。
この本は「写真の読みかた」というタイトルだが、書かれているのはどちらかというと「写真の見せかた」だった。しかも最初は写真の歴史からはじまり、全体の半分ぐらいは著者の自伝に割かれている。見せ方にしても、著者はアート写真に批判的な人で、主に新聞や雑誌に掲載する報道写真について書かれている。
よい写真とは、写真の最大の機能であるコミュニケーションの手段として、最もわかりやすく、面白く、かつ感動させるものであるべきだった。作者が自分と、ごく少数の仲間だけで楽しむ写真などは、最大の機能を忘れたものとして、否定すべきであったのです。 p89
写真だけを見ない
著者の言う写真の見せ方は、基本的な主張として一貫している。写真一枚では記録にしかならない。一過性のものでしかない。写真は説明文を加え、何枚もの写真を連ねることによって初めて物語性を持つ。
写真 ×(キャプション + レイアウト) = ストーリー
これは報道写真に限ったことではなく、著者は一枚だけの写真を「今日だけの芸術」と説いている。例えば、雑誌に投稿する賞などは一枚写真も対象にしている。しかし木村伊兵衛賞といった写真賞において、展示会や連載、写真集といったまとまった作品しか受賞の対象にならないことも多い。
何枚かの写真が並べられ、それらが語っている物語が問題となりつつある今日、一枚一枚の写真の技を鑑賞することは、能において能面だけを鑑賞することと同様、まったく別の立場からものを見ることになってしまったのです。 p95-96
組み合わせの表現としては、1955年にニューヨーク近代美術館で、エドワード・スタイケンが企画した『The family of man』が一つの革命だったとか。
The Family of Man: photography that united the planet – in pictures | Art and design | The Guardian
誰が撮ったかは重要ではない
具体的な見せかたとして、全体のテーマ、撮り方、組み合わせ方、取捨選択によってストーリーが違ってくることを、実例の写真と説明書きを混じえて解説している。
これは究極を言えば、誰が撮ったかも重要ではい ということになる。実際に著者はユーゴを取材した際の記事を、同僚が撮った写真と組み合わせて作っている。『The family of man』展は様々な目的のもとに撮られた写真を選び並べた展示だった。
私は文字を使った小説、詩などと同様、写真という記号を、最初に撮られた目的にも、写真を写した人にも関係なく、また、たんなる記録としてでもなく、すべて独自の立場で、素材として使いこなした芸術が生まれるべきだといつも考えていますが、『ザ・ファミリー・オブ・マン』展は、その可能性、少なくとも、その方向を示しているように思われます。 p81
その他、求められる写真の基本としては以下のような言葉もあった。
読者というものは、自分たちの知っている有名なことを、他の面から見せてもらいたがっている p107
読者は、ただ珍しいものより、珍しい中にも自分たちの生活感情の息吹のあるものを希望している p108
感想
僕自身が写真を見るとき、振り返ってみるとタイトルや説明を読まなかったり、全体的なテーマを意識しないことがあった。写真集を買ったときには時間をかけて読んでいたりしたけれど、写真展を訪れるときは読むのがめんどくさくてほとんど意識せず、ただ展示されている写真だけを眺めていたように思う。
順番やレイアウトが大事だということも、言われてみれば当たり前なんだけどあまり意識していなかった。一枚一枚の写真だけを見て、よくわからないと思いながらそのまま通り過ぎていたことを思い返すと、非常にもったいなかったなーと思う。
この本自体は著者の自伝が多いので、興味があれば買う価値あると思う。戦前の日本で、21歳で単身ドイツに渡って報道写真家になった人なんて、他にいないから。日本へ戻ってきてからは木村伊兵衛や土門拳とも一緒に仕事をしていた人らしい。