人と繋がらないためのインターネット

インターネットはコミュニケーションの手段である。
インターネットは人と人とを繋げる新しい形である。
人と人とが繋がって悪いわけが無い。協調が出来る。新しいものが生まれる。より良い方向性を導き出す可能性が広がる。

インターネットはそういう風に喧伝されてきた。主に、ベンチャー企業や、インターネット事業を主力とする企業、その他ネット業界を盛り上げようとする人たちは、インターネットが人と関わるためのツール、ビジネスであれパーソナルであれ、ボランティアであれ、グループであれ、コミュニケーションの可能性を広げる手段として強調されてきた。

それは間違いではないのだろう。正しいのだろう。インターネットのそもそもの起こりが、遠方とのデータのやりとりを簡易に行うためだったことからして、コミュニケーションを円滑に行うための技術だと言える。そこからの発展も、人と世界と、社会と、国家と、企業と、民族と、市民たちをつなげるテクノロジーとしての発展と言える。ソーシャルなんて言葉はまさしくそれを体現している。

その反面、インターネットは人と繋がらないための手段としても発展してきた。

電子媒体によるコミュニケーションの広がりは、それ以降へと発展するきっかけのための繋がりと、そこで完結するものと二種類ある。

一方は、インターネットを介して知り合い、ビジネスをし、コミュニティを築き、その先でやはり、人と人とか関わり合う。電話で話し、実際に会い、書類を交わし、契約を交わし、握手を交わし、インターネットの先におけるコミュニケーションであり、繋がりであり、関わり合いが広がる。その過程において、インターネットはきっかけに過ぎない。その先ありきの、手段に過ぎないインターネット。インターネットは人と人との繋がりの可能性を広げた。或いは、元からある繋がりをより顕密に、リアルタイムに、円滑にコミュニケートする手段として発展し、繋がりそのものを早く強く広いものにした。

おそらく、大半の前向きなインターネット利用論はこちらを指すだろう。SNSにしろ、電子商取引にしろ、現実社会で行っていることをインターネットで置き換えただけ。過程が変わっただけ。そこが重要で、大幅に飛躍、拡大した。

他方、人と繋がらないインターネットでは、その先が発生しない。インターネットで完結する。インターネットのおかげで、コミュニケーションが不要となった場が多々ある。

電子決済などはまさにその象徴であり、窓口業務の削減、電子化、web化により、人と関わらずに手続きが出来るようになった。保険の加入や航空券の購入といった契約手続きも、衣服の購入、食料品の購入、身の回りのものは大抵、人と関わらなくとも揃う。会わないどころか、電話さえ、メールのやり取りさえなくとも、事を運ぶことが出来る。


「人は一人では生きていけない」

私はこの言葉にすごく違和感を覚える。確かに、社会があり、人がおり、生産者がおり、人は誰かの作った物やサービスの上で全ての生活が成り立っている。狩猟、栽培、生産、運搬、配分、何においても自分以外の誰かの手が加わっており、そういう意味では一人で生きていくことが出来ないかもしれない。

しかし、それは誰もが同じことである。誰かが特別誰かに世話になっているわけではなく、誰かが一方的に誰かを支援しているわけでもない。そういう世の中の上でそういう生活が成り立っているだけ、制度とシステムの上で生きているに過ぎず、人に頼って生きているわけではない。誰もが自分に頼って、自分の力で生きている。その発露の方向が多様化しただけであり、自分の人生は自分の力で前へ進むしか無い。自分の生活というものは、制度とシステムという土壌の上で成り立ってはいるが、自分の人生を助けてくれる人は誰もいない。


「人は、つながらなくても支え合える」

過度なコミュニケーション能力依存の現代社会から脱出したい人は、コミュニケートしないでも生きていける手段を取ろう。

コミュニケーション能力なんて言葉が台頭しだしたのはいつからだろう。それは自分からくってかからないと、誰も助けてくれないという意味を持っている。みんな、周りを見ず、周りが見えず、コミュニケーションに敗れた者は取り残され、社会から、人から認識されなくなり、いてもいなくても同じ存在はやがてその場から姿を消すようになる。

弱肉強食、残酷なことだが、それはどこにいても免れない。人は人を助ける余裕なんか無い。本当だろうか。少なくとも今まではどうだったか。コミュニティが存在した時期は、そうでもなかった。それはセーフティネットと呼ばれた。しかし、コミュニティは廃れた。一部の関わり合う人達のためだけのものとなった。今はコミュニティに取って替わるものがあるだろうか。インターネットだ。

ボランティアに、募金に、あれだけの労働力とお金が集まるのは何故だろうか。彼らは、その助けをどこで知り、その呼びかけをどこで受け、誰に呼び止められ、前へ進んだのだろうか。頑張っている人、助ける人をどこで見て、自らを奮い立たせたのだろうか。その多くはインターネットではないかもしれない。街頭募金かもしれない。テレビかもしれない。しかし、それらは二次的なもので、本当に自らが何かを行った事にはならない。手を貸すだけなら今まで誰もが行なってきた。自ら動きだすことがこれだけ増え、発信され、容易になったのは、インターネットのおかげではないだろうか。

本当は、人は人のためなら頑張る事が出来る。そういう言葉を、ここ最近僕はどこかで何度も聞いた。インターネット上のどこかで。

自分は人のために頑張れるかもしれない。繋がらないどこかで。人は自分の為に頑張ってくれるかもしれない。この繋がらないインターネットで。(書いている途中)

提示は出来るが答えは出せない。

関わりたい人とだけ関わろう

コミュニタリアンとか