人を理解できないという防御壁について

「あなたが話すのはいつも自分のことばかりで、まるで世界の中で自分一人が生きているようだ」

こういうセリフが、マンガの罪と罰にあった。

 

自分の世界は分断されている。この感覚というのは幼い頃から強く持っている。自分はこの世界に生きているが、自分の生きる世界というのは孤独で、自分一人しかおらず、誰とも分かり合うことも混ざり合うこともない。同じ世界で協力、協調することはあっても、自分の中というのはいつも、いつまでも孤独だ。その内と外は、やはりどうあっても、誰とどんな関係を築いたとしても分断されている。

そんな弥勒、ラスコーリニコフをモチーフにした主人公を「寂しい、哀しい」と言い、その内側に入り込もうとするエチカ(エチカは言うまでもなくソーネチカがモデルになっているが、キャラクターは全然違う)。僕はそれがとても上手くいく類のものとは思えないが、そう思う相手がいる、そう思ってくれる相手がいるということは幸福なのだろう。 

罪と罰 (落合尚之) 全10巻完結セット (アクションコミックス) [マーケットプレイスセット]

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人間の分断というのは、必要なことだと思う。人と人を分けるのは、自意識の問題である。そこが重なってしまうと、自分とそれ以外の境界がなくなる。統合失調症というのは、自我の境界がなくなる病気だと読んだことがある。心理的に自我を構成しているのは、自分は自分であるという自意識だ。自意識が自己から漏れだしたり、他人と共有されるということは、ともすれば自分が自分でなくなるに等しい。人が生きていく上で、自分が自分であり、一人であり孤独であり、他人とは別物であるという意識は必要だ。
精神分裂病

肉体の境界というのは、実は曖昧らしい。もちろん大体の人は自分の肉体を自分のものとして認識できる。しかしその境界というのは、細胞単位で見ていくと存在しないというのをまたどこかで読んだことがある。我々の肉体は細胞の集合体で構成されている。細胞というのは引力のようなもので集まっているだけであり、細胞同士の具体的な結びつきというのは存在しないのだと。僕はその、生物学の専門的なことは分からないが、細胞が独立していることは知っている。その独立した集合体が自分なのだ。つまり、見方によって自分は肉体的にバラバラなのだ。

我々の人生というのは、一人ぼっちの自我が密集した細胞の隙間を埋めようと励む作業なのかもしれない。永遠の孤独にある自我が、その細胞たちの隙間を何とか埋めようと必死にもがいているのだ。その形の一つが生殖なのではないかと思った。互いの細胞を分け与え、生まれた新たなる個体は自分ではなく、あなたでもない。しかし同時にそれは自分の分身でもあり、あなたの分身でもある。人と人との距離が究極に近寄った存在が、新たなる個体なのではないだろうか。

あなたは、果たしてテレパシーを便利だと思うだろうか?テレパシーとは思っただけで相手に伝わることだ。悟りとか悟られとか少し前に流行ったが、僕はテレパシーが可能になると、自我が崩壊するのではないかと思う。自分の気持ちと他人の気持ちと、どちらも同時に脳内に流れ、どちらも誤解することなく理解できた場合、それが自分の気持ちであるか他人の気持ちであるかをどうやって区別つけるのだろう。自己が自己であるということ、それは永遠の孤独かもしれないが、そうやって自らという存在を守っている。