世の中とそうやって関わりたい

中学生の頃の夢は仙人になることだった。漢文に出てきた仙人と呼ばれる世捨て人たちの生き方に憧れた。山奥で昼間から集まって酒を飲んで、しかし何でも知っているから時々良いことを言ったりする。こんな認識だと怒られるかもしれないけれど、所詮中学生から見た仙人像だ。そんなもんだろう。

スポンサードリンク  

もちろん、僕は仙人になれなかった。僕は彼らと違って人と関わろうとしないだけでなく、能力がない。頭も悪く、何も知らない。ヒントは出せない。アドバイスもできない。歌を詠んだところで素人の趣味だ。誰かの琴線に触れることもままならない。届いたところでたかが知れている。何かに影響を与えることはない。ましてや、経済的自由がない。時代のお陰で地位の自由はあるものの、一般庶民として日々真面目に勤しむこともままならない。せいぜいホームレスになって何日もつか、というところ。

それでもやはり、理想は理想だ。それは理想と現実のギャップなどという意味ではなく、僕のその仙人像は飽くまで理想として残り続けているという意味だ。僕は世の中に参加すること、属することができず、望んでもいない。ちょっとした形で関わるというのが本当に理想。僕が以前いた会社の新入社員研修で、標語のように謳われたいた言葉があった。「100%コミットメント」このコミットメントという言葉は欧米人の恋愛でカジュアルの次にある段階だそうだがそんなことはどうでもいい。僕が知っているのはベトナム戦争当時のニクソン・ドクトリンにあった「アメリカ合衆国はコミットメントを維持する」という言葉ぐらい。意味としては、全力で関わる、みたいなもんだろう。

つまり何が言いたいかというと、新入社員研修の標語は僕の思想と真逆だった。仕事だから当たり前と言うか、しょうがないんだけどさ。現実の僕は、何事にも深入りしたくない。自分でやりたくない。見てるだけでいい。少しだけ意見を挟むぐらいがちょうどいい。それは責任を逃れたいというよりも、やりたくないから。めんどくさい。仕事でも趣味でもイベントでも何でも、コミットしたい人だけがしたらいい。もちろん、コミットした人はそれだけの報いがあればいいだろう。僕はそこまでの報いはいらない。

これはなんていうのだろう、コミットの反語を調べたらアパシーとか出てきた。冷淡とか無関心とか、そこまでは行かないんだよな。ちょっとだけ関わりたい。何かを全力で作り上げたり変えたり生み出したりするのではなく、少しだけ関わって後は成り行きを見守りたい。合間合間だけ関わりたい。世の中に対してもそう。明解な主義主張があるわけではない。でもこれなんかいいよねとか、おかしいよね、って思うことは意見だけ言いたい。じゃあどうしたいのって言われても、別にどうもしたくない。こういう風になればいいな、と思って自分は自分なりに行動するだけ。世の中を変えようとか、そういうのは思わない。同じ意見の人がいれば応援したいと思うけれど、参加したいとは思わない。飽きるから。

僕が今ネットでやっていることなんてまさにそうだと思う。僕は何事もしていない。何も活動していなければ、何も生み出していない。そして世の中にちょっとだけ関わる。参加はしていない。手も足も頭も使っていない。いてもいなくて同じような自分の意見を言うだけ。思いついたことを述べるだけ。そこには明確な意志も主義も方向性も無い。気分次第で変わる。もしそれで、古代中国の仙人みたいに生きていけたら理想だなあって思ったけれど、自分にはそれに足る見識も経験も無いから、無理だわって話。自分はせいぜい独りで、自分のためだけにできることをするだけ。せこいっちゃせこいけど、興味ないことに全力で取り組めるほど人間できていない。