旅行は社会の勉強であり修学旅行だという話

社会の勉強と社会勉強は少し違う気がする。僕が言う社会の勉強というのは文字通り小学校で習う科目の社会であり、地理歴史政治経済の社会だ。酒を呑んだり恥をかいたり風俗に行ったりする社会勉強ではない。社会科学と言えるかもしれないけれどそんな本気のものでもない。そこまでいかなくても旅行は僕にとって社会の勉強なのだ。レジャーがメインではなく、学習を目的としている。そう、まさに修学旅行なのだ。だいたい一人で行くんだけどね!

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学生時代の修学旅行が忘れられなくて大人になっても続けているというわけではない。むしろ学生時代の修学旅行で真面目に修学していた人を見たことがない。僕もそうだった。だって学校の修学旅行なんて行きたい場所でもなんでもなくて興味も意欲もない。やらされているだけ、強制に近い。だからダレる。現実の修学旅行っていうのはレジャー半分、団体行動半分、学習ゼロっていうところだろう。しかし僕が大人になってから行っている旅行はまさしく学習のための旅行なのだ。本物の修学旅行なのだ。

旅行の楽しみ方について、以前に少し触れたことがあった。その時は勉強について触れなかったため補足しておこう。

旅行の楽しみとしては珍しい物を見る、食べる、体験するというのが一般的だろうか。それに加えて今まで知らない人と関わるとか、知っている人たちと感動を共有するとか。僕もそういうことは稀にある。でもそれはついでだったりする。主な目的は、繰り返すが社会の勉強となる。歴史、文化、宗教、民族、内政、外交、戦争、現地に向かう前にそういうことを予習する。来月訪れる予定のイスラエルについては旧約聖書の解説や世界史の中のパレスチナ問題という本を読んだぐらい。予習と言ってもその程度。今はユダヤ教徒の一部がガルートを否定してパレスチナに移り住むようになった経緯が気になっているけれど検索してもあまり見つからない。

予習は飽くまでも興味が湧いた後、現地に向かうまでの間の予習にすぎない。元々興味を抱いたからこそ現地へと足を運ぶ。生で見る。直に触れる。声を聞く。臭いを嗅ぐ。それらを引き立てるために予習をする。そして紙に書かれていたことや想像していたこと、それ以上のこと、それ以下のことを実感する。踏み込みが浅ければ実感も浅く、知識や感性が足りなければやはり実感は薄い。現物が予想ほどではないということもたまにはある。

そういうわけで僕は今、修学旅行でおなじみの京都に一週間だけ帰ってきています。京都へ足をお運びの際は、予備知識を蓄えているとより一層旅を満喫できるかもしれません。明日は都合がつけば春画展と蔦屋書店に足を運んでみようかと思います。全然関係ない話で終わった。

春画展 | 京都 細見美術館