失踪への憧れ

遠い昔より失踪への憧れというものがあった。失踪とはすなわち姿を消すあの失踪である。いつの間にかいなくなる。行方知レズ、彼奴姿晦マシである。失踪を取り扱った作品というのは、僕が知っているだけでもいくつかある。今挙げた曲、ZAZEN BOYS「自問自答」は失踪を直接テーマにしているわけではないが、「行方知レズ、彼奴姿晦マシ」は彼の歌詞である。

 

曲を聞いた時は知らなかったが、スガシカオの「ヒットチャートをかけぬけろ」は失踪した友人がヒットチャートでこの曲を聞いて連絡くれるように願って作った曲らしい。その後どうなったかは知らない。

書籍であれば、真っ先に挙げるのは安部公房の「燃えつきた地図」。Wikipediaによると「砂の女」「他人の顔」「燃えつきた地図」は失踪三部作と呼ばれているそうだが、一番真正面から失踪を取り扱ったのが「燃えつきた地図」であった。まさに失踪した男を捜索するところから始まり、依頼を受けていた探偵ががそのまま同じく失踪してしまうという話だ。

燃えつきた地図 (新潮文庫)

燃えつきた地図 (新潮文庫)

 

燃えつきた地図 - Wikipedia

村上春樹「スプートニクの恋人」も失踪をテーマに取り扱った作品であったように思う。手紙を残して姿を消した「すみれ」。主人公は彼女のエピソードを混じえながら追いかける。最後どうなったんだったかな、遊園地が出てきたような気がする。

スプートニクの恋人 (講談社文庫)

スプートニクの恋人 (講談社文庫)

 

スプートニクの恋人 - Wikipedia

尚、僕が個人的に最も好きな作品としてフランツ・カフカの「失踪者」という本があるが、これは今言う失踪とあまり直接結びつかない。強いて言えば最後の部分だけが読者にとって主人公の失踪に近い。

「泣いた赤鬼」という童話は有名なので知っている人も多いと思う。僕は幼年期あれを「青鬼の失踪物語」として見ていた。僕が失踪を意識したのはおそらくこれが一番最初だろう。赤鬼は行方こそ探していないものの、青鬼は姿を消した。僕の記憶では、石の扉の前で泣き崩れる赤鬼と、扉の内側で喜んでいる青鬼の挿絵があった。それがどの絵本なのかはわからない。

泣いた赤鬼 - Wikipedia

これらのように失踪を語る物語がいくつも存在するということは、やはり失踪というテーマそのものについて、一般的にも何かしらの惹きつけられるところがあるからなのだろう。それは一体なんなのか、そして自分自身は一体なぜ失踪にこだわるのか。まず失踪そのものについて整理してみる。

失踪とは、冒頭に述べた通り誰かが行方をくらますことである。誰かがいなくなる、行方がわからなくなる、今どこで何をしているのか、死んでいるのか生きているのか不明であり連絡がとれない状態が失踪と呼べる。民法では「失踪宣告」という制度があるそうだ。

失踪宣告 - Wikipedia

例えば、僕自身は今現在失踪している状態とは言えない。長い間日本におらず、所在はころころと変わるが僕の知り合いは僕に連絡を取れる、安否も確認できる、どこにいるかもわかる。仮に連絡が取れない状態になったとしても、所在が確認できればそれは失踪とは呼べない。facebookやブログ上において僕の活動が確認できるとか、僕の所在を知る人と連絡が取れるとか、そうでなくても探せば簡単に見つかる。なんらかの形で僕の現状、所在を知ることができるのであれば、それは失踪と呼べないだろう。

では僕が失踪状態に入るということはどういうことだろうか。連絡が途絶え、活動が確認できなくなると僕は「失踪した」という扱いになる。そしてそれは、僕自身からの視点ではない。僕に連絡、安否確認を取ろうとした人間からの視点である。失踪というのは常に相手から定義される状態であり、本人の意思で失踪することはあっても本人がその状態を「失踪している」と定義付けることはできない。また、僕の所在や活動が客観的に確認できなくなったとしても、誰も僕を探さなければそれは失踪にはならない。ただの忘れられた存在か、浮浪者である。さらに言えば、僕を探している人間以外に僕の所在を知る人がいれば、当たり前だがその人から見て僕は失踪状態ではない。失踪というものを定義付けるにあたってはこの「探している人間」という存在が最も重要となる。失踪は一人では成り立たない。消える人と探す人の関係を指す言葉である。

よって失踪を描く物語というのは、常に探す側からの視点で描かれることになる。探す対象の状態が把握できるのであれば、それは失踪とは呼べないからだ。自らが失踪する過程を描いた物語というのもあるだろうが、それは言うならば逃走、もしくは何らかの事件に巻き込まれた物語であり、行方がわからなくなる失踪とはやや異なる。

失踪がどういうものか整理した上で、失踪に惹かれる部分というのが見えてきただろうか。失踪にはその、予めの関係と、そこからの分断がある。分断が一方的であり、理由が不明なのも重要だろう。そして捜索という過程がある。相手を探さないのであれば失踪ではなく、単にどこにいるか知らないだけだ。しかし僕はその、失踪者の行方を追いかけて謎を解明していくというミステリ的な側面に関心があるわけではない。これはなんて表現すればいいのだろう。そこにある何か得体の知れないものに魅力を感じる。忽然と姿を消す、急に何が起こったのだろう、どうやっても連絡が取れない、今どこで何をしているのだろう、何故いなくなったのだろう、解明される過程ではなく謎そのものに惹かれる。「燃えつきた地図」や「スプートニクの恋人」はそれが謎のまま終わる。失踪のその「よくわからない」という部分に僕は惹かれているのだろう。

もう一つはやはり、少なからず失踪者に対する羨望がある。誰かが失踪者の行方を探すということは、その誰かにとって失踪者が大切な人間だからだろう。それが友人としてなのか、親類としてなのか、どういった形で重要視されているかはともかく、誰かに何らかの形で大切に思われ、探されるということに憧れを抱いている部分がある。自分は昔からその、分断に対する願望が強い。人との関係を全て無くしてしまうということは、意図してかせずか今まで何度もあった。近年では「繋がり」や「人脈」なんていう言葉がもてはやされているが、それは僕にとってかなり抵抗のある概念であり、言葉である。なるべくそのわけのわからない繋がりなんていうのを持ちたくない。それらは自分にとってノイズでしかない。失踪への憧れというのは、自分を失踪者たらしめる「本物の」繋がりへの憧れなのかもしれない。

失踪者 - Wikipedia