退屈な日常にスパイスを。「アヘン王国潜入記」感想・書評

辺境作家、高野秀行の本を続けざま読んでいたが、ソマリランド、西南シルクロードと共に代表作とされている「アヘン王国潜入記」をやっと読み終えることができた。この本に書かれていた内容は1995年のことで、もう20年も前の話になる。当時僕はまだ小学生だったし、一般家庭にはパソコンもインターネットも携帯も普及していなかった。なにしろあのwindows95の年なんだから、どれぐらい前の話なのか想像つくだろう。そういう時代のギャップがある本は現代の感覚で読むのが難しく、手に取るのを躊躇っていた。しかし、この本には関係なかった。高野さんが過ごした家ではネズミが米びつをかじり、服にはシラミがわき、風呂に入るほどの水もない、住民は生まれてから一度も風呂に入ってことがない(シャワーもない)、トイレはなく野糞が当たり前、まさしく辺境である。windows95どころの話ではない。この本が書かれてから20年の間には、もちろんビルマ情勢も大きく様変わりした。ミャンマーは今では僕ら一般人も普通に旅行できる国となっている。高野さんが滞在したワ州は今でも普通に旅行する場所ではないだろうけど、当時と大きく変わったことがあとがきによって記されている。ただ、20年の月日を経て当時と状況が違うからと言って、それでこの本の価値が変わるかと言えば、全然そういうことはない。多くの人がいまだに足を踏み入れることのないミャンマーの辺境ワ州に、20年前、半年以上かけて滞在した唯一の日本人の記録として面白く読むことができる。

 

ヘロインビジネスを中心に取り扱う本ではない

この本のタイトル「アヘン王国潜入記」とあるように、高野さんはゴールデントライアングルと呼ばれたケシの栽培地へ足を踏み入れ、そこに滞在した日々の出来事を記している。潜入とあるが、公的に身分を詐称して入国しただけであり、その地域を支配するワ州連合軍の幹部には事前に話を通し、許可を得ている。タイトルと取り扱う題材から「ヘロインビジネスの闇を暴く」的なジャーナリスティックな内容を想像するが、全然そういう本ではない。

ワ州連合軍がヘロインをどのように売りさばくかについてはあまり触れられておらず、焦点はあくまで「ケシを栽培する人々」に絞られている。彼らは果たして「世界をアヘン中毒に陥れて儲けよう」という19世紀イギリスのような悪の組織なのか、もしくは「アヘン栽培を軍隊に強制されている農奴」といった解放すべき存在なのか。ゴールデントライアングルでケシを栽培する人々は一体どのような動機で動いており、どのような生活を営んでいるのか、それを探るためにアヘン王国へ潜入したというのがこの本の題材となっている。だから反政府ゲリラにマークされて危険な目にあったり、麻薬取引を糾弾して告発するような本ではない。

(予備知識として、ヘロインについて補足する。ケシという植物の実から取れるアヘンを精製することで、ヘロインという麻薬になる。順番としてはケシの実→アヘン→モルヒネ→ヘロインの順番で精製される。ヘロインは最強の麻薬として名高く、「トレインスポッティング」などの映画にもよく出てくる。当然ながら国際条約で取引が禁じられている。モルヒネは鎮痛剤として、ガン療養や戦場においても一般的に利用されている。ゴールデントライアングルで栽培されているのはケシであり、栽培農家が取り扱うのはアヘンだが、ワ州連合軍が裏社会で密売するのは精製されたヘロインとなる。この本で高野さんが取材の対象としたのは軍ではなく農家、ヘロインではなくアヘンという意味合いになる。)

アヘンについてどう思っているか

ではその、生産者の意識とはどういものなのか。高野さんは「アヘン王国」へ潜入して何をしてきたのかというと、ケシを栽培する村に住んで一緒にケシを育てていた。そこは形式上ワ州連合軍の統制下にある村だったが、軍の管理下にあるというよりは村の人間もワ州独立ために兵隊として戦っているだけであり、軍が村にケシの栽培を強いているわけではなかった。軍からの指示はあったかもしれないが、栽培に対して村人が反対していたり強制されているようなところはない。もっとも軍からアガりを要求されることには反発もあるようだが、一般的には「お金になるから」という理由だけでケシの栽培が行われている。村人のほとんどはヘロインという言葉も知らない(モルヒネさえ知らない)。

ゴールデントライアングルの他の地域において、実際にケシの栽培から脱却した地域を見てみると、現在では大体コーヒーや茶などが栽培されており、ドイトンコーヒーという銘柄は有名だそうだ。要するに商品作物として栽培しているだけであり、お金になればなんでもよくて、麻薬になるケシを栽培することに特別な目的はない。ワ州については気候の関係でコーヒーや茶が育たず、ケシの栽培が続いていたというだけだった。

高野さんが滞在したムイレ村という村で、アヘンはどのように扱われているかというとほとんどは単に販売用、それ以外は薬として用いられていた。病気そのものを治すわけではないが、解熱剤や風邪薬と同じように一時的に症状を抑える対症療法の薬剤として利用さていた。時には嗜好品として使用されることもあり、中には中毒になっている人もいるがごく稀である。生産者である村人たちは、アヘンの取扱い方も危険性も熟知している。また、このような狭い地域では村社会として住民の管理が行き届いており、麻薬中毒者には居場所がない。

ムイレ村の生活

そういったアヘンの話はこの本の半分ぐらいを占めている。残り半分はというと、ワ州における生活にページが割かれている。まずこの本を読んで感じたことは、時間がゆっくりと流れていることだった。高野さんは反政府ゲリラの手を借りて中国雲南省からミャンマーへ入国し、ゴールデントライアングルの中のワ州へと足を踏み入れるが、その過程において管轄担当の引き継ぎが行われ、2時間3時間待たされることは当たり前、2、3日だって平気で待ちぼうけを食らう。いざ滞在先の村に着いてみると、時計がない。朝起きる時間も仕事を始める時間も終わる時間も決まっていない。カレンダーすらない。何日経ったか数えていないとわからない。人の行動を支配するのは純粋に太陽の昇り降りと、季節の移り変わり、それに伴う農作物の成長具合だけだ。農村の生活である。

吉幾三の「テレビもねえ」どころか電気がない。楽しみはと言うと、山を2時間歩いた場所で5日に1度開かれる市場へ出かけることと、酒しかない。この本では本当にずっと酒を飲んでいる。プライコーという現地の酒で、昼間から飲んでいることや二日酔いになることも多い。高野さんだけでなく村人やそこら中の人が酒ばかり飲んでいる。アル中の老人も出てくる。娯楽が少ないどころか、それしかないんだからそうなるのだろう。僕がオーストラリアの農場で暮らしていたときは、郊外の生活で、関わる人は毎日限られており、生活に変化がなくつらい日々を過ごしていた。同居人は「週1の買い物だけが楽しみ」と言っていた。それでも文明の中で暮らしており、何よりネットがあるだけで全然違った。高野さんの滞在生活を読んでいると、よくこんなところに半年以上暮らしていたなあと思う。

それ以上に怖いのが、病気だ。高野さんの本では珍しいことだが、死ぬ人がよく出てくる。医療設備どころか医学の知識も広まっておらず、謎の奇病が突然発生し、急に人が死ぬ。薬といえば対症療法のアヘンや、治療といえばおまじないのように祈るか、もしくは血を抜くような民間療法だけしかない。高野さん自身もマラリアにかかり、そのまま村にいると死んでしまうため一度村を離れ、医者のいる町まで戻り治療を受けている。それ以外にも全身シラミに噛まれて治療を受けにまた町まで行ったりしている。高野さんは他の本でもよく病気になっているけれど、そんなに何度も辺境で病気になってよく死なないなあと思う。とても真似出来ない。

普通の目線から辺境を追体験

この本は高野さんが作家生活を続けていく上で、非常に重要な一冊となった。

作家であれ、ライターであれ、ジャーナリストであれ、およそ物書きであるなら誰にでもその人の「背骨」と呼ぶべき仕事があると思う。
単行本でもいいし、雑誌に書いた一本の記事でもいい。世間で評価されまいが、売れまいが関係ない。とにかく、「自分はあれを書いたのだ」と心の支えになるような仕事だ。
私の場合、それが本書である。p371

魔のゴールデントライアングル、世界中で取引されるヘロインの中枢、入るのも危険、滞在も危険、そんなアヘン王国の潜入記は高野さんの代表作となった。出版社に持ち込めば「それは日本とどういう関係があるのか?」と問われた。出版にこぎ着けるのも難しく、ようやく出したら全然売れなかった。翻訳版は日本の英字新聞、シンガポールや香港、オーストラリアの雑誌、新聞、TIME誌のバンコク支部などに評価され、「タイの東大」と呼ばれるチュラロンコン大学で特別講師として呼ばれた。

ムイレ村の生活実態調査が本の主題とは言いつつも、危険が及ばない範囲でワ州連合軍に対し、ヘロインビジネスについて言及している。軍隊のトップは見た目はうだつのあがらない普通の中年オヤジだったり、辺境の地でありながら私欲を肥やして1千万単位で儲けている人物なども出てくる。いろいろな危険と、のどかな生活が共存する、著者の「背骨」となった一冊「アヘン王国潜入記」。平凡な日常に退屈している人は、その有難味を感じるか、もしくは冒険に出かけたくなるでしょう。僕は両方でした。 

【カラー版】アヘン王国潜入記 (集英社文庫)

【カラー版】アヘン王国潜入記 (集英社文庫)

 

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