「タイタンの妖女」感想・書評

「わたしだって、彼らがわたしを仲間に入れてくれるならそうしたろう」

カート・ヴォネガットの有名な本で、特に爆笑問題の太田光が大絶賛していたから名前だけは知っていた。そして岡田斗司夫推薦のSFということもあり、気になって読んだ。タイトルの「妖女」っていうのは原著だと「セイレーン」になっている。ファンタジーによく出てくる妖精か精霊みたいなやつだ。タイタンというのは土星の衛星のタイタンで、コンスタントという男がタイタンに住むセイレーンを追いかけて宇宙の旅をする話。事の経緯は、時間等曲率漏斗という宇宙の狭間に吸い込まれたラムフォードという男が、概念のような存在になり2ヶ月に1度だけ地球に姿を表すようになったところから始まる。彼は過去から未来まで全てを見通せるようになっていた。そしてコンスタントを自宅に招き、後に宇宙旅行をすることになるという予言をする。そのときラムフォードがコンスタントに見せたのは、このタイタンに住むセイレーンが写った写真だった。

読んでみての感想

なかなか読むのが大変だった。この手の本というか、アメリカの作家であったりSF本にはよくある傾向なんだけど、ネタ振りが壮大過ぎて読んでいる最中があまり面白くない。全体の9割ぐらいがそんな感じで、その最中が結構苦痛だった。それはこれが古い本であり、この後の何十年かの間にあらゆる手法が使い古されてしまったせいかもしれない。唯一挙げるとすれば手紙のシーンが面白かったけれど、その他は意外な展開ではあったにしろそれほど劇的なわけでもなく、まあ単に自分が期待しすぎていただけということもあったのかな。

結末については、ああそういう方向に持っていくのかという面もあり、よくわからない面もあった。特に息子については何が書きたかったのかよくわからない。自分たちとは全く違う未来を歩むという意味にしては内容が薄すぎて、嫁にしてもあまり重要ではなかったのかなと思わせられる。宇宙物SFとしては人類より高度な知的生命体が、ちっぽけな目的のために人類を利用していたというのは、まあよくわかる話であり、それを人類がどうとらえるかということが、ひいては人間の生きる目的みたいなものに繋がっていくというのもよくわかる。

宇宙人の作り出したサロという機械が、機械であるがゆえに理想の人間的であり、それといわゆる愚かな人間を対比させている部分は遠い惑星においてもタイタンにおいても感じられる。遠い惑星の姿は地球の未来でもあるだろうし、生物の生きる意味みたいなものはそういった無意味なこと、目の前にある小さなことや長年かけて行われる壮大なことも含め、総括的に大した意味のない、些細なこととして水のように流れ去ってしまうものである、というようなことが書かれているように感じた。一つの人生に限らず、歴史や人類の行いを俯瞰的に見て、その意味や目的はなんなのか、はるか昔にそれを失ってしまった、遠い惑星の宇宙人に示すための小説だったように思う。

個人的な評価は、娯楽としては「星を継ぐもの」に劣るかなあ。SFとしては「ソラリス」に劣ると感じる。文学として見てもやっぱり「フラニーとゾーイー」には遠くおよばないと感じたのは、僕がそれだけ年を取ったからなのかもしれない。「フラニーとゾーイー」ではそこに祈りのようなものがあって、苦悩することでそこにたどり着いた。「タイタンの妖女」では苦労とか体験で結論に行き着いた感があり、そのちっぽけさがそのままちっぽけに感じてしまったというのもある。全体的な評価も悪くはないんだけど、普通だった。ネット上の書評もいくつか読んでみたけれど、あまり高評価なものはなかった。そう気を張って読まず、コメディぐらいに思っていたほうが楽しめると思う。