「羊をめぐる冒険」感想・書評

「人はみんな弱い」

「一般論だよ」と言って鼠は何度か指を鳴らした。「一般論をいくら並べても人はどこにも行けない。俺は今とても個人的な話をしているんだ」 下巻p200

「羊をめぐる冒険」は村上春樹の初期三部作と呼ばれる「鼠シリーズ」の最終章である。"鼠"とは登場人物のニックネームであり、物語の主人公の、地元で知り合った友人として登場する(「風の歌を聴け」参照)。高校卒業後に上京して大学に通い、そのまま東京で働いていた主人公は、10年ばかり鼠と会っていなかった。それでも手紙の交流は続いていた。鼠も同じ頃に街を離れ、10年の間各地を転々とさまよい暮らしていた。その合間に鼠は、一方的に手紙を送っていた。やりとりのない一方的な交流だった。最後の手紙で、鼠は二つの頼み事を書いていた。一つは別れた女性に会ってほしいということ。もう一つは同封の写真を、どこか広く人目につく場所に載せてほしいということ。

再読の感想

読書の休憩としてこの本を選び、再読した。読書の休憩に読書をするというのは変な話だけど、これは僕にとって正解だった。異常なまでに読みやすい。読むにあたり、実にとっかかりがなく流れるようにページが進む。これから読むドストエフスキーはそうならないだろうし、この前に読んだハインラインも読むのに2週間ばかりかかった。上下巻あるこの「羊をめぐる冒険」は3日で読み終えてしまった。

僕がこの「羊をめぐる冒険」を読んだのは高校以来だった。村上春樹作品として読むのは当時4作目、「ノルウェイの森」「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」に続いて読んだ。今になって再び読み返してみると、村上春樹作品の王道とも言えるファンタジー冒険小説の原型が既にここにあった。この小説は1982年に出版されたもので、村上春樹にとってまだ3作目である。典型的なところは「自分の自由意志を他人にないがしろにされる散々な物語」、巻き込まれ型、それに対して不満を感じながらも、シニカルに事を運ぶ主人公、「やれやれ」。

「羊をめぐる冒険」に特徴的なのは、男同士の話だというところ。村上春樹小説は一般的に、男女の物語であることが多い。しかしこの「羊をめぐる冒険」は女性ではなく男性の"鼠"という友人を主軸に置いてる。共通の友人である"ジェイ"もしかり。友情物語と言ってしまえば安っぽい表現になってしまうが、男性同士の物語という意味で他の作品とは一風違った趣がある。村上春樹作品の中にこういった長編小説は、他にはなかった。

冒頭の引用にあるように、鼠のような人物も他の作品には見られない。金持ちの息子で、几帳面で女によくモテるが、自分の弱さをどうにも扱えない人物として描かれている。村上春樹小説の主人公は、確固たる自分を持ちながらも物語に流される人物である。流されることに怒りを覚えながら反発の機会を伺い、逆転する、もしくはどうにもできずに終わるというのが物語の流れだ。鼠という人物は、物語に立ち向かえない人だった。物語を避けては追いかけられ、ついには捕まってしまった。物語に飲み込まれそうになり、拒絶することで物語を終わらせた。最後に彼は、立ち向かえる人にその救いを求めた。

鼠と主人公。あの頃のあの場所という一点で交わり、酒を交わした者同士。その後彼らはそれぞれの速度で、それぞれの方向へ時間を進めていく。再び点が交わったとき、別の時間を歩んできたお互いは、もうあの頃とは異なっている。それでも思い起こされるのは、お互いの距離が最も近かったあの頃あの場所にいた自分たちであり、そのときと変わらない印をなんとか見つけ、お互いのどこかに刻み直したいと思う。それが形だけのものであり、中身は既に失われていたとしても、我々はそういうものに救いを求める。ジェイズ・バー。あの頃の3人の証。

余談

「柱時計のねじを巻く」という描写にピンときた。これは後の「ねじまき鳥」に繋がっている。鼠はねじまき鳥のような存在として、後の作品にも観念的に登場しているかもしれない。

ネットの書評を読んでいると、鼠のモデルは「ノルウェイ」のキズキくんじゃないかと書かれていた。「ノルウェイ」でキズキくんの事は詳しく描かれなかったが、実在したであろうキズキくん(直子のモデルは実在すると言われている)を元に、想像的に作り上げた人物が鼠なのかもしれない。それは「羊をめぐる冒険」が、現実で叶わなかった友人との対話を、物語の上で叶えるために書かれた作品であるようにも思える。

個人的には村上春樹の"女"を取り巻く物語よりも"鼠"のような対等な人物が渡り合う物語のほうが好きだったりする。そういうのはもう書かれないんだろうな。

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