人生においてのif

今週のお題「私のタラレバ」

普段こういうことはあまり考えない。不毛であると同時に、自分はifをあまり信じていない。人生において選択肢はないと考えているから「もし、あのときこうしていたら、ああしていたら」なんて思ったことはない。やり直したいと思うほどのことが人生になかったとも言える。このifというのはSFなどでよくタイムリープを扱うときのテーマになる。過去を振り返り、もしあのときこうしていれば、人生は別の方向に進んでいたかもしれない。そしてタイムリープで過去に戻り、人生の選択をやり直す。しかし、また別の問題に遭遇するというのがSFの定番だ。さて、そのような人生においてのif、「私のタラレバ」は何があるだろうか。

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分岐1.スポーツor勉学

自分は小学校に入る前から小学校の高学年まで5年ほど続けていたスポーツがあった。しかし中学受験をするため辞めることになった。それ以降はそのスポーツと一切関わりがない。代わりに小学5年から塾に通い始め、学校の勉強とは全然違うことを、学校の先生とは全然違う人から教わり、自分の知性はここで開花したと言える。受験には失敗したが、物事を理性的に見る、論理的に考えることは塾で教わった。ここでもし、自分が塾ではなくスポーツを続けていたらどうなっていただろう。

勉強が中途半端だったように、スポーツも中途半端だったことは間違いない。特に才覚に優れていたわけでもないから、適当な賞ぐらいは取ったかもしれないけれど、脳筋で暴力的になっていた。いずれにしても孤立は免れなかった。もしかすると今以上に道を外していたこともありうる。スポーツの方面で就職というのは考えにくい。良くて中高続けてそれで終わり。道を外さなければ、精神の健全性は今よりは保たれていた。結局大学には行っただろうし、今よりは人付き合いもあった。肉体的には優れていて、人間関係もましだが、その分つまらない人間になっていただろう。今まで自分が興味を持ってきた多くのものと出会う機会を失っている。当たり前のことを当たり前に考えることしかできない俗物になっていたか、自分の内側にある考えや思いを表に出す術を知らず、狭い世界に縮こまっていたか、いずれにせよあまり良い結果が想像できない。それは今の自分の基準から判断することであり、スポーツを選んでいた自分にしかわからない良さや経験はあったかもしれない。

分岐2.文系or理系

受験に失敗して公立高校へ通った。僕が通ったコースは高校受験の段階から理系であることが決まっていたため、高1〜高3まで理系として過ごした。しかし高校レベルの理系科目についていけなくて、大学は文系の学部に行った。もし高校で文系を選んでいればどうなっていただろう。理系科目を学ぶのに費やした膨大な時間を、文系科目に費やしていたとしたら、もっとましな大学に行っていたかもしれない。中学生の頃は何が得意だったか、あまり覚えていない。数学と英語を徹底的に鍛える塾だったから、それ以外は人並にできただけ。数学は人よりできたけれど、ずっと嫌いだった。高校に入ると全然だめになった。化学も物理もだめだった。文系に行っていたとして、古文や世界史なんかができるようになっていたか。微妙だ。やる気がなかったから多分同じだったと思う。それでも理系から文転するよりはましか。

人付き合いは大きく変わっていた。理系独特のおもしろい人たちと接点がなく、浪人もせず、文系で高校を過ごすことによって出会わない人たちはたくさんいる。どちらかというとやはり、平凡でつまんなかっただろう。その後の大学生活は何か変わっていたか、大して変わらない。勉強する内容が変わったぐらいで、いずれにせよ大学でも孤立していた。何事もなく卒業して何事もなく就職するという点においても同じと考えられる。劇的な出会いみたいなものはあったかもしれないが、偶然の要素が強いため想定できない。高校の文理選択で変わることがあるとすれば、付き合いのある人と大学の名前。

分岐3.継続or退職

2013年に勤めていた会社を辞めた。このときに部署異動を提案されたが、会社にいることが嫌だったから断った。もし辞めずに部署異動を受け入れていたとしたら、今とはいろいろ違う。給料は下がるが、経済的に安定、それどころか裕福な暮らしを続けることになる。リストラをしない会社だったから、仕事はできなくてもしがみついて、ずっとそれなりの生活が保障される。その会社は今でも相変わらず業績が良い。一線を退きつつも会社員を続ける自分は、週5日会社に通い、帰宅してだらだらと過ごす。休日には買い物をして、ゴールデンウィークや夏休み、年末休みに旅行する。どこかのタイミングで結婚することもあったかもしれない、そういうありきたりなつまらない日常を送っていただろう。そしてそのまま死ぬ。

スポーツを辞めたのも理系を選んだのも10代前半の成り行きであり、自分の選択とは言えない。会社を辞めたのは30前で明確な自分の意志だった。しかしこうやって見ると、自分は意識的にも無意識的にも、つまらない生活、ありきたりで平凡で安定的な、刺激の薄い人生を避けてきたように思う。僕が言うつまらないとか平凡というのは、それ自体がアホらしいとか楽しくないとかいう意味ではなく「予測できる」という意味だ。予測ができることを、予測とそんなに外れない形で行うよりは、先が予測ができない方向をおもしろく感じ、進んでいる。結果が予想できるゲームほどつまらないものはないが、予想できない方向に進むというのはとても賢い選択とはいえない。でも例えもう一つの選択肢を選んでいたとしても、その場その場で新たな刺激を求める選択をしていた可能性が高く、その志向からは逃れられない。結論としては、どこをどう転んでも大して変わらん。同じ。

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