「ノルウェイの森」を読むのはとてもつらい

「ねえ、あれは本当に淋しいお葬式だったんだ。人はあんな風に死ぬべきじゃないですよ」 下巻p252

村上春樹のファンタジー冒険小説を読んでいてもこんなふうに思うことはほとんどないんだけど、「ノルウェイの森」を読んでいるととてもつらい気持ちになってしまう。この本を初めて読んだ17歳のときもそうだった。あのときはショックが大きくてなかなか立ち直れなかった。それは哀しい話で泣いてすっきりするようなものではなく、身体の内側に重くのしかかるような、読み終えた後もずっと頭から離れないような、そういうものだった。そこにあるのは、明確な痛みだった。当時僕はごく平凡な高校に通っていて、恋愛もしたことがなく、この本みたいに周りで親しい人が死んだこともなかった。その後も変わらず平凡な日々を過ごしている。それでもこの本を読むと、自分の中をえぐられるような、ひどい痛みを覚える。

この物語は僕の経験とは全くリンクしていない。時代も違えば、出てくる人たちと共通点もない。考え方も違う。同じような体験もしてない。この本を周りの人に勧めると、内容への驚きや展開の意外性についての感想はあったが、僕のようにひどく落ち込んだ人はいなかった。感想はそれぞれがそれぞれの形で持つから、一致することのほうが珍しい。では僕がこの本から一体何を感じ取ったのか。何がそんなに、僕に対して訴えかけてくるのか。そういうことを言葉にできたらと思う。この本には誰もが経験する、ある種の普遍的なことが描かれていた。

すれ違いの物語

物語は大学生の主人公ワタナベくんを中心としている。彼は人と距離をとって暮らし、深入りしない。殻にこもっていると表現されているが、人当たりが悪いわけでも人見知りでもない。静かだけどユーモアがあり、一見すると思いやりがある。

「孤独が好きなの?一人で旅行して、一人でごはん食べて、授業のときはひとりだけぽつんと離れて座っているのが好きなの?」

「孤独が好きな人間なんていないさ。無理に友だちを作らないだけだよ。そんなことしたってがっかりするだけだもの」 上巻p98

この本ではワタナベくんをはじめとして、人が人との関わりに失敗する。相手の気持がわからず、考えていることがわからず、自分の思いが先走って自分本位に考え、行動をとってしまう。相手の確認を取りながら慎重に事を運んだつもりが、全然違った方向を歩いており、その先にゴールはなかった。失敗すると言ったが、それではこの物語に成功はあったのかと考えてみても、想像できない。ここではあらゆる人たちが互いの思いを読み違える。意思疎通や行動、その他、人と人が関わり合う上で噛み合わない、うまくいかない。それは僕自身が今まで生きてきた上で、どの時点でも感じていたことのように思う。

「私とキズキくんは本当にとくべつな関係だったのよ。私たち三つの頃から一緒に遊んでたのよ。私たちいつも一緒にいていろんな話をして、お互いを理解しあって、そんな風に育ったの。初めてキスしたのは小学校六年のとき、素敵だったわ。私がはじめて生理になったとき彼のところへ行ってわんわん泣いたのよ。私たちとにかくそういう関係だったの。だからあの人が死んじゃったあとでは、いったいどういう風に人と接すればいいのか私にはわからなくなっちゃったの。人を愛するというのがいったいどういうことなのかというのも」 上巻p207

僕はワタナベくんほど器用ではなく、直子ほど不器用でもなく、緑ほど強くなく、永沢さんほど頭がよくないけれど、「人との関わりがうまくいかない」という芯の部分については共通するものがあった。それが誰にでも持ち得る共通項と呼ぶのにふさわしいかどうかはわからない。不器用さを抱えている人がこの本を読んでも、そういう部分に目が行かないこともある。この本をただのポルノ小説と受け取る人もいる。

ワタナベくんについてもある部分では大いに不器用な存在として描かれているが、僕には彼が上手く生きているように見える。どんなに思い悩んでいても目の前の現実にきちんと対処できたり、物事を早く切り替えられたり、僕にはない器用さをふんだんに持ち合わせていて、それが羨ましくも感じる。一方で彼は人に対してあまりにぞんざいで、自分本位でしかない。

「ワタナベも俺と同じように本質的には自分のことにしか興味が持てない人間なんだよ。傲慢か傲慢じゃないかの差こそあれね。自分が何を考え、自分が何を感じ、自分がどう行動するか、そういうことにしか興味が持てないんだよ。だから自分と他人をきりはなしてものを考えることができる。」 下巻p113

それはワタナベくんに限らずどの登場人物にも言えることで、そういう人が自分を棚に上げて「あなたは本当に無神経ね」と言いながら行き交い、関わり合う。それは物語だけでなく現実においても同じことだろう。程度の差こそあるかもしれないが、究極を言えば誰だって人のことはどうでもよく、物事は自分に都合のいいように運べばいいと思っている。

人と人が関わろうとすると、往々にしてすれ違う。相手に良かれと思ったことは自分本位でしかなく、裏目に出る。正直に言ったつもりのことは伝わらない。だから正直に言わないほうが良いことも多い。でも人は人に対して、誠実であろうとすればするほど正直になる。発した言葉は自分と相手とで別の意味になる。同じ言葉をもってしても、人が違えばその意味は変わってくる。人がどうとらえるかなんてわからない。人の気持ちなんていくら考えてもわからず、同じ生き物じゃないと思う。人と人は永遠にわかりあえない。

それでも人は人と寄り添って生きていくしかなく、そこになにかしらの接点であったり、形を見出そうとする。同じ時間を過ごし、何らかの意思疎通であったり、合意であったり、繋がりを得ようとする。そして多くの場合、それが一方通行か、もしくは勘違いであったことを知る。一方通行が行き交い、お互いがお互いを勘違いし、誤解の中で関わり合っている。

強調される生きづらさ

おいキズキ、ここはひどい世界だよ、と僕は思った。こういう奴らがきちんと大学の単位をとって社会に出て、せっせと下劣な社会を作るんだ。 上巻p90

この本では僕らが生きる世の中の猥雑さ、薄汚さがところどころ強調されている。そういう世の中に対しての反発や、そこで生きることの息苦しさ、本来あるべき世界へのあこがれのようなものまで登場する。それは精神医療の療養センターとして出てきた。広大な土地があり、自然が豊かで、静かで、人々は何もかも打ち明け合い、大きな声を出すこともない。誰もが自らの歪みを自覚しており、向き合っているから争いも起こらない。規則正しい生活をし、運動をし、作物を育て、お互いの長所で短所を補い、助け合って生きている。そこから表に出たとき、世の中の現実を目の当たりにして戸惑う。

十五分おきに救急車だかパトカーだかのサイレンが聞こえた。みんな同じくらい酔っ払った三人連れのサラリーマンが公衆電話をかけている髪の長いきれいな女の子に向かって何度もオマンコと叫んで笑い合っていた。
僕はだんだん頭が混乱して、何がなんだかわからなくなってきた。いったいこれはなんなのだろう、と僕は思った。いったいこれらの光景はみんな何を意味しているのだろう、と。 下巻p38

現実の不完全さと、そこで生きることの大変さ、馴染めなさ、そして脱落していく人たち、立ち向かっていく人たちがこの本には書かれている。

「そのとき思ったわ、私。こいつらみんなインチキだって。適当に偉そうな言葉ふりまわしていい気分になって、新入生の女の子を感心させて、スカートの中に手をつっこむことしか考えていないのよ、あの人たち。そして四年生になったら髪の毛短くしてっ三菱商事だのTBSだのIBMだの富士銀行だのにさっさと就職して、マルクスなんて読んだこともないかわいい奥さんもらって子供にいやみったらしい凝った名前つけるのよ」 下巻p61

少なからず誰もがそういう現実に対して疑問を持ったことはあるだろう。こんな世の中はおかしい、間違っている、狂っている。そう感じながらいつの間にか、無意識か意識的にか、おかしな現実の片棒を担いでいる。そうしないことには生きていけない。この矛盾や割り切りはいったいなんだろう。なぜ割り切らないと生きていけないんだろう。なぜそういう仕組みになっているのだろう。どこかで強い権力を持った人がそういう仕組みを維持しているからだろうか。そんなはずはない。

おそらくこの矛盾というのは、人間の内側に備わる善と悪の葛藤みたいなものから生まれている。理性と本能のせめぎあいだと感じる。正しいことと理解しつつも、利益がなければ動かない。間違ったことだとわかっていても、欲に溺れて手を染める。そして割り切りとは、自分事と他人事の割り切りのように思う。世の中の歪みを他人事だと割り切ってしまえば、自分のことだけを考えていられる。自分さえ良ければいい。割り切れなければ、自分の中に抱えてしまい生きづらくなる。

「肩の力を抜けば体が軽くなることくらい私にもわかっているわよ。そんなこと言ってもらったって何の役にも立たないのよ。ねえ、いい? もし私が今肩の力を抜いたら、私バラバラになっちゃうのよ。私は昔からこういう風にしてしか生きてこなかったし、今でもそういう風にしてしか生きていけないのよ。一度力を抜いたらもうもとには戻れないのよ。私はバラバラになって――どこかに吹きとばされてしまうのよ。どうしてそれがわからないの?」 上巻p17

「ノルウェイの森」では、矛盾を抱えきれなかったり割り切れなかった人たちが若くして自殺する。そしてすれ違いながらも助け合い、現実に立ち向かっていく人たちが生き残っていく。この本を読むと、自分が今生きていることを再確認する。生きているということは、つまり自分の生活には多くの矛盾を抱え、割り切りがあることを意味する。それはこの現実世界で生きる上で必要なことであり、生きやすくするためにはもっと多く取り込んでいくべき要素なのだろう。それを成長と言ったり、汚れると言ったりする。

それしかないんだろうか。生きるってただそんなことでしかないんだろうか。その場で分泌される快楽物質に支配されて、ただそれがよければいいだけなんだろうか。そんなになってまで生きてどうするんだ。そこまでして生きるのは本当に正しいことなのか。何の意味があるんだ?そういう自己問答を若い頃は繰り返していた。それもいつしかわかったような気になってやらなくなったが、この本を読むと再び思い起こされる。

僕はもう既に矛盾も割り切りも内包してしまっており、いまさら死ぬことはないだろう。それにともない少しずつ失っていった「正しさ」をこの本の中にみつけ、なつかしい気持ちになり、同時に悲しく思う。