This is ハードボイルド「ロング・グッドバイ(翻訳:村上春樹)」の感想・書評

彼はライターで胸をとんとんと叩いた。「もうからっぽだ。かつては何かがあったんだよ、ここに。ずっと昔、ここには何かがちゃんとあったのさ、マーロウ」

位置No.7672-7674

今回読んだのは、村上春樹が影響を受けたレイモンド・チャンドラー著『ロング・グッドバイ』を村上春樹自身が翻訳したもの。「影響を受けた」っていうのが実によくわかる文章で、これぞハードボイルドという感じだ。しかし、書いたのがアメリカ人だとなんでクサさを感じないのだろうなー。これが日本人だったらと思うと、この本はクサいセリフの見本市になる。

ハードボイルドをクサいと思うか?

一応明確にしておくが、クサいセリフ、クサい表現というのは「自分に酔った」とか「気取った」という意味と同義。今流行のイキリオタクや数年前に流行った地獄のミサワ的なものだと思っていい。村上春樹自身の小説においても、カッコイイとかハードボイルドというよりは表現のクサさがどうしても目立つことがある。

ではこの『ロング・グッドバイ』に出てきたハードボイルドな表現やセリフを引用しまくってみる。まずは序の口から。

しかしそれはあくまで「あるいは」であり、どこまでいっても「あるいは」でしかない。

位置No.434-435

「あるいは」は村上春樹の小説でもよく見かける。セリフとしてもよく出てくる。現実の日常会話で「あるいは」なんて耳にすることはめったにない。小説においても限られてくる。例えば『何者』のような小説には出てこない表現だろう。では、もっと本格的なのを行ってみよう。

「アルコールは恋に似ている」と彼は言った。「最初のキスは魔法のようだ。二度目で心を通わせる。そして三度目は決まりごとになる。あとはただ相手の服を脱がせるだけだ」

位置No.444-446

これ、シラフで言える人いる?酔っ払ってても無理。モノクロ時代のクラシックな洋画に出てきそうなセリフであり、例えば国産の小説でこんな表現が許されるとしたら、ファンタジーか童話ぐらいだろう。我々が実社会で真似して言おうものなら痛さしかない。まだ行ってみよう。

「君の家のコーヒー缶の中に、百ドル札を五枚入れてきた。気を悪くしないでくれ」
「つまらんことをしてくれたな」
「持ち金の半分だって使えそうにないんだ」
「幸運を祈るよ、テリー」

位置No.698-700

「先に勘定済ませておきました!」とかそんなダサおもてなしとはワケが違う。「気を悪くしないでくれ」「つまらんことをしてくれたな」カッコつけんなー!!と言いたくなるだろう。「フィクションだから」といって平気な人も中にはいるかもしれない。それを「平気」にさせるのは世界観である。もしそこで僕らの日常にあるリアリティが感じられると、それはどうしても「クサいセリフ」としか認識できない。

「クサい」とか「気取った」という印象は、セリフと実態にギャップがあるからこそ感じるのであって、フィクションにおいては世界観の作り込みを徹底することにより、そのギャップを埋めることができる。引用だけではクサいと感じるハードボイルドな表現は、物語全体を通して読むと実に自然に溶け込んでいる。この小説に用いられる表現はずっとこんな感じだ。彼らは部分的にカッコつけているわけではない。全てこの調子で、日常の諸動作としてこれらのことをやってのける。人見知りで暗いオタクが、Twitter上だけでイキっているのとは全然違う。

アメリカだからこそハードボイルド

「フィクションである」ということ以外にも、クサさをハードボイルドに転換してしまう要素がある。それはこの世界観の元となる舞台だ。アメリカのロサンゼルス、私立探偵のフィリップ・マーロウ。これが早稲田大学の文学部をモチーフにしていたら、どんなフィクションもハードボイルドにはならない。

時代背景もある。この本が書かれたのは1952年、第2次世界大戦から10年も経っていないアメリカ。現代に比べて暴力、汚職、アルコール、タバコ、ギャンブルが行き交っていた、いわゆるタフな時代だった。地でハードボイルドを行ってた。

そして多分、アメリカという土地柄が最もハードボイルドたらしめているのだろう。戦前から世界一の資本力で自由を築いてきた国。何よりも資本が重視され、多くの億万長者が生まれ、金が正義とされる社会に対し、金以外の公正さだったりを重視しようとする反発。多数の国から来た移民たちが英語とアメリカに忠誠を誓う独特の世界。

不思議なことに、我々日本人だって英語を話せば自然とアメリカ人的なメンタリティになり、日本語では絶対言えないようなセリフが自然と口から出てくる。英語だとそちらの方が違和感なく自然なのだ。これは言語とその下地にある文化の成せる力で、そこでは決してクサいなんて思わない。

『ロング・グッドバイ』と村上春樹

さて、今回この『ロング・グッドバイ』を読むことにしたのは、この記事を読んだからだった。

村上春樹の系譜と構造 (内田樹の研究室)

この本を翻訳した村上春樹の著書『羊をめぐる冒険』が、『ロング・グッドバイ』を下地に書かれているという話だ。さらに『ロング・グッドバイ』はスコット・フィッツジェラルド著『グレート・ギャツビー』を下地に書かれていると言う。この点については村上春樹も『ロング・グッドバイ』の訳者あとがきにて言及している。

『ロング・グッ ドバイ』を読んでいくと、その小説には『グレート・ギャツビー』と重なりあう部分が少なからず認められる。テリー・レノックスをジェイ・ギャツビー とすれば、マーロウは言うまでもなく語り手のニック・キャラウェイに相当する。ロング・アイランド(郊外住宅地)=マンハッタン(大都市)を行き来するストーリーライン は、アイドル・ヴァレー=ロス・アンジェルスという位置関係に置き換えられる。

位置No.7938-7942

共通する大きなテーマは「友人関係」の物語であるということ。大人になった男性が、若さの象徴のようなものをいまだに持ち続ける男性に対して、かつては自分の中にもあった脆さや儚さを見出し、手助けせずにはいられないというストーリーラインも一貫している。

話型の構造で言えば、マーロウは「僕」で、レノックスは「鼠」です。レノックスと「鼠」は主人公の分身、アルターエゴです。このアルターエゴの特徴は、弱さ、無垢、邪悪なものに対する無防備、それらの複合的な効果としての不思議な魅力です。それはこう言ってよければ、主人公が「今のような自分」になるために切り捨ててきたものです。主人公たちを特徴づける資質は、自己規律、節度、邪悪なものに対する非寛容といった資質です。タフでハードな世界を、誰にも頼らずに生き抜くためには、それなしではいられないような資質です。

村上春樹の系譜と構造 (内田樹の研究室)より

僕自身は『羊をめぐる冒険』も『グレート・ギャツビー』も既に読んでおり、この記事を読んでからずっと『ロング・グッドバイ』を読みたいと思っていた。そしていざ読んでみて、指摘されていた部分を確認した。

それ以外にも、村上春樹がレイモンド・チャンドラーに影響受けまくっているということを強く実感した。それは表現のしかたである。村上春樹の代名詞となっている、気取ってニヒルな「やれやれ」は、この『ロング・グッドバイ』には登場しない。主人公フィリップ・マーロウは嫌味ったらしく悪態をつき、ときには怒りに任せて怒鳴り、暴力も振るう。ヤクザや悪徳警官、殺人者と立ち合い、正真正銘タフなハードボイルドの世界に生きている。そんなものは村上春樹作品のどこを探しても見当たらない。

『ロング・グッドバイ』と村上春樹ではジャンルの違いだったり、舞台設定に大きな違いがある。にもかかわらず、『ロング・グッドバイ』には村上春樹作品のオリジナルと呼んで差し支えのないような、ありとあらゆる表現手法が見て取れる。それはハードボイルドな世界観にガッチリと当てはめられた表現だからこそ、気取りや違和感、クサさを感じさせない。逆に村上春樹はその身についた表現スタイルを自身の作品の中で用いながら「あなたって変な話し方するのね」みたいに登場人物に指摘させたりして、違和感やクサさそのものを作品の世界に組み込んでいる。

でもその視点というのは飽くまで我々日本人的な視点なのだろう。村上春樹の小説は外国人に受け入れられやすいと言う。海外の読者は我々日本人のようなクサさを感じていないのではないだろうか。彼らは日本の文化圏の下地を持たないから、彼らの視点からは村上春樹の描く世界観そのものがファンタジーであり、違和感の持ちようがない。我々のように「日本人の登場人物がそんな言い回ししないだろ」なんて思わないのだ。

感想

村上春樹云々は別として、『ロング・グッドバイ』おもしろかったです。いわゆる探偵小説としてのミステリを読むのは『ミレニアム』以来になるのか。あれは探偵というよりジャーナリズムがテーマになっており、ゼロ年代のスウェーデンを舞台にした社会派ミステリで毛色がまた全然違って楽しめた。

『ロング・グッドバイ』はどちらかというと刑事ドラマに近い。本格ハードボイルドの世界観は実質初体験だったと言っていい。時代性に伴った緊張感があり、スタイルについては終始ガチガチの一貫性があり、緻密で奥深い描写によりハリウッドアクション映画のような陳腐さは感じられない。そして主題となっている友人関係の物語としても、読み終えた後には自分の過去や周りの人をいろいろ思い返すことになる。

関わったって損しかないのに、なぜか放っておけない友人。世話を焼いてしまう友人。彼は迷惑をかけてすまないと言う。恩に報いようとする。同時に、自分の力だけではできない何かをやり遂げようとする。最後に、申し訳なさそうに「手を貸してほしい」と言う。そこには利害関係なんてものはない。僕はかつて君のようだったし、今もかつての僕のようであり続ける君を、ないがしろになんてできない。