テラスハウス的な恋愛に見る違和感

もともと恋愛どうこうは苦手だった。興味がなかったとも言える。テラスハウスを見るようになったきっかけは以前に書いたが、恋愛のことがメインではなかった。

恋愛模様を探るために見ていたわけではないテラスハウスだったが、該当の人物が出ていってからも惰性で見続けていると、やはりテラスハウス的恋愛への違和感が膨れ上がった。テラスハウス的恋愛とは、同じ家に様々な住民が入れ代わり立ち代わり暮らし、その中で恋愛相手を取っ替え引っ替えするというものだ。番組の趣旨そのものは恋愛模様をお届けすることなんだろうけど、実際はそれ以外にも人間関係や職業や生活における様々な喜び、葛藤などを描くことで、端的に言えば人生を映し出すことで番組に深みを出そうとしていた。だから他人の恋愛に興味津々ではない僕にも、この番組に見どころはあった。

しかし、やはりその恋愛模様についてはどうしても違和感が残る。こういうのって、どうなの?という気持ち。こういうの、とは、つまり入れ代わり立ち代わりしていく住民たちが、恋愛対象を取っ替え引っ替えしていくことだ。僕自身はそういう恋愛を節操がないと思う。あまり健全とは思えない。かといって自分が全くそういうことをしないのかと言えば、あながちそうとも言い切れないから、なんとも言えない嫌な気分になる。

番組を見たことがない人でも、番組の趣旨でどういう様相を呈しているか想像がつくだろう。テラスハウスには男3人女3人がひとつ屋根の下で暮らす。住民を仮に男性ABC、女性ABCとしよう。男性Aと女性Aがお互い惹かれ合うか否かという検証を経て、男性Aは女性Aを否と判断し、次の検証対象を女性Bとする。女性Aは居づらくなって出ていき、また別の女性Aと入れ替わる。男性Aは女性Bにアプローチをするが、女性Bは男性Cが気になっており、男性Aの好意を退ける。わかりにくいな。

男性A ⇄ 女性A ☓ →女性A交換
男性A → 女性B ☓
男性C ← 女性B ?

住民の入れ替わりこそあるものの、身近な人間同士で恋愛対象の吟味し、取っ替え引っ替えすることが短期的に繰り返されている。僕が違和感を持つのは、その恋愛対象を取っ替え引っ替えするという部分だ。他人に対する好意や愛情は、そんなに軽々しく芽生えたり失ったりするものなのだろうか?その軽々しさ、薄っぺらさが僕にはわからない。それってつまり、究極は「誰でもいい」という事になりはしないだろうか。その前提として「条件さえ合えば」ということにはなるが、相手そのものはそんなに重要ではないのだろうか?相手という個人、人間は。

お見合いサイトやマッチングアプリとの違いは、きっかけを作る手段でしかない。婚活や結婚に関して、僕はどういうものか理解していないためなんとも言えないからお見合いサイトはともかく、マッチングアプリは多分彼氏彼女を作るために用いられるのだろう。単に性交渉の相手を探すだけならわかりやすい。その点について僕は疑問を持っていない。しかし、恋愛には関心がないため、短期的に繰り返し恋愛対象を検証するという行為がよくわからない。それはマッチングアプリ上でもテラスハウスでも言える。

マッチングアプリやテラスハウスがきっかけだとしても、相手を選ぶにあたっては諸条件だけでなく、相手の人間性や人格を大事にするというのは当然だろう。問題はその次。失敗したらまた別の人に行く。「あれ、大事にしていた相手の人間性や人格はどこいった?」となる。それが短い期間で繰り返されればされるほど対象個人に対する重みや意味合いはどんどん薄れていき「そんなに誰でもいいのか?」と思ってしまう。

一人一人の人間は、人格はそんなに重要でないのだろうか?取っ替え引っ替えするということは、対象の人格、人間性を蔑ろにする行為に当たらないだろうか?そんなことを言っていたら生涯一人しか出会わない運命の相手としか恋愛できない。そう思うかもしれない。僕自身は恋愛したいなどとは思わないからそれでいいと思う。人間一人一人を、その人格を大切にしたい。本当は。もしくは全員を切らずに蔑ろにせずに大切にするというのでもいいと思う。