遠距離恋愛1万キロ、5ヶ月目に入る

自分としてはあまりこんなことを書きたくない。さんざん「恋愛興味ない」とかほざいておいてノロケかよ!みたいになるのは心苦しい。だからなるべく事務的に、淡々と記録を残しておきたい。これは彼女一人と、自分に向けて書いている。公開していることに意味はない。

自分の遠距離は途方もない遠距離で、1万キロ以上離れている。故に、この4ヶ月は一度も会っていない。今後もなかなか会えない。次に会えるのは夏頃だろう。付き合い始めたのは4ヶ月前で、実際に彼氏彼女として直接接したのは2日間のみ。それってもはや付き合っていると言えるのか?彼女と言えるのかというほどだ。知り合ってからは1年以上が経過している。付き合う前は友達だった。そういった経緯は以前にも書いたので、興味ある人がいれば参照してもらいたい。

さて、この4ヶ月がどんな感じかというと、自分でも拍子抜けするぐらいに順調だ。それが返って不安になるぐらい、何の問題もない。一度ももめたことがない。お互いに不満を抱いたことがない。むしろ日に日に関係は良くなっていっている。強いて言えば会えないことだけがきつい。これって自分にとってはかなり例外的なことだ。もともと人と関係を築くのは得意じゃない。恋愛関係となれば尚更だ。ましてや遠距離で、離れてから一度も会っていない。

どうやってそんな順調に関係を続け、なおかつ育んでいけているのか。そしてこれからも今の調子で続けていけるように、自戒の意味を込めて書き残しておく。誰かの参考にはあまりならないと思う。

気負い過ぎない

僕らの交際が具体的にどんな感じなのかというと、会ったりはできないが毎日連絡をとっている。通話は数日に1回、週に2,3回程度だが、メッセージのやりとりは毎日しているといったところ。内容は他愛のないやりとり。実にどうでもいいような、日常の報告、今日あったこと、これから何するか、今思っていること、最近あったことなど、仲いい友達との会話のような内容だ。

お互い本当になんでも話している。これはお互いの性格からそうなるだけであって、お互いが「私には何でも話して」と言ってるわけではない。そもそも僕は人に対して何でも話す方ではない。彼女は本当に、誰にでも何でも話す人で、彼女がいろいろ話すから釣られて僕も何でも話してしまう。コミュニケーションに気負いがない。話さないといけない空気みたいなものは全くない。連絡しないといけない気負いもない。もともと友達だったからというのもあるかもしれないが、お互い極めて気軽なやりとりを継続できている。

相手のことを一番に気にしているが、気を遣ったりはしていない。だからずっと気軽なままでいられて、なおかつ頻繁に連絡を取り合えている。僕自身はめちゃくちゃマメではないが、けっこう自分から連絡する。向こうから来ても返す。彼女もそれに自然に応えてくれている。催促なんてどちらもしない。うまく成り立っている。あらゆる意味において、必死さがない。それはお互いがいい歳で、わきまえているからというのもあるだろう。これが10代の恋愛だったらもっと突っ走ってしまう。そもそも10代の自分にこの遠距離関係は成り立たない。

僕も彼女も男女の駆け引きみたいなのは心底苦手で、不毛だと思っているし、不健全で精神衛生上よくないと思っている。だからそういうことはしない。お互いを煽るような関係は刺激的かもしれないが、自分はそういうの嫌いだし結果的に何も生まない。だからお互いが相手の対して不安に思うようなこともなく、そういう意味でも気負いのない関係が続けていられる。健康の心配はしたりしているけど。

相手に求めない

その延長で、相手に何かを求めたりしない。「自分をこういうふうに扱ってほしい」とかそういう願望を相手に抱かない。人間誰しもそういう願望があり、相手がそう思うなら、といって合わせていくようなところがある。特に最初のうち、付き合うに至っては相手の願望を満たすことでお互いがうまくやっていけそうな気になる。

相手にあれこれ求めて、うまく満たされるならそれでいいが、そうじゃなければ不満を抱いたり、「この人違うな」と思ったりしてうまくいかなくなる。もしくは相手に求めるだけ求めて自分が相手の願望を満たしていないとなると、今度は相手の方に不満が溜まる。そこでお互いの希望を述べ、話し合って落とし所を見つけるという手段もある。ただ僕はそういうの疲れるし、期待されるのは苦手で、自分に何かを求められるというのは大体においてフェードアウトしてしまうフェーズだ。

ただ実際のところ、僕だって相手にはいろいろ求めてしまうところがあり、彼女だって僕にいろいろ求めているところはある。人と人が関わる上でそれは仕方ない。じゃあこの項のテーマと違わない?相手に求めないことがポイントじゃなかったのか。相手に願望を抱かないのではなかったのか?

これを言うのは本当にノロケみたいで、自分としてはかなり気が引けるんだけど、僕らの場合、相手に求めずともお互いの願望を自然に満たし合う関係ができあがっている。つまり、もともと彼女が彼女であるだけで、願望が充たされているようなところがある。具体的な話をすると、僕は人から干渉されるのが苦手であれこれ言われたくない。自分のことは大体自分で決めるし、意見されると話す気がなくなる。だからあまり自分から話さないということもある。

彼女は自分の話をだーっとして、僕の話も聴く。僕の話に対して批評したりしない。あれこれ口を挟まないで、僕自身をそういう人間だと理解しつつおもしろがって聞いてくれる。それは僕が望んでいるからそうしているのかどうか知らないけれど、僕らはお互いを一人の人間として尊重しているところがあるから、他人の意見にあまり口出ししない。そういう前提が初めからできあがっている。

もちろん僕が意見を求めれば答えてくれるが、飽くまで自分だったらどう考えるという限定された範囲であり、「こうしたほういい」「間違っている」「どうするべき」なんていう押し付けは全くない。また、あまりにもおかしいことや、間違っていることには口出しするが、お互いある程度分別があるためそのようなことにもならない。コミュニケーションは取れているのに、干渉されないという心地いい関係性ができあがっている。

結論としては、求めずともやっていける相手を選んだというだけ。

与え続ける

これは僕と彼女がそうしているだけで、他人に推奨しているわけではない。僕らは相手に求めるのではなく、与え続ける。僕はとにかく彼女を肯定している。全肯定は自分が理想とする人との関わりかたであったが、今までなかなか実践できなかった。本当は誰でも肯定したいけれど、そうそう全肯定できるような人なんていない。彼女は僕にとって、全肯定する対象だった。そして彼女は、さいわいにも肯定されることを望んでいる。先ほどの「相手に求めない」の項目で、実際には相手に求めてしまっているところがあると言ったが、彼女は自分のことを肯定されたい、尊重されたいという願望があった。僕は彼女が望むからではなく、自分がそうしたくて彼女を全肯定している。それも表立って、口に出して、態度で現している。お互いの性分がたまたまうまく合致したと言える。

自分は求めずに、ただひたすら相手に与え続けるのは苦痛に感じるかもしれない。一方的に与えるだけだと不満を抱くかもしれない。彼氏彼女に限らず人間関係において、そのような感情を抱くことは多々あるだろう。見返りを求めるというやつ。僕自身は、この「見返り」をかなり求めない方だと思う。与え続けるだけで特に不満はない。一方的で構わない。自分の厚意に恩を感じてもらう必要はない。ないんだけど、仇で返されるのは我慢がならない。それは「自分がやってあげたから」ではなく、単純に自分に対して仇をぶつけてくるような人とはやっていけない。普通そんな人とは初めから関係を築かないでしょうと思うかもしれないが、親しくなればそうなる人は案外いる。害をなしてきたり、仇をぶつけてきたり、蔑ろにしてきたり。それが僕に甘える行為なのかどうか知らないけれど、そういう他人の人格を尊重しない態度には我慢がならない。

この点について、我々は意見が一致している。お互い、過度に求めず、どちらかというと喜んで与える側だ。そして、厚意に対してはきっちりと返礼をしないと気がすまないタイプである。お互いがそうだからうまく成り立っている。僕は見返りがなくても与え続けるけれど、見返りを求めずとも返ってくる。返ってくるから尚更相手が好きになり、より尽くそうという気持ちになる。向こうもそうだ。僕が何も言わなくても、僕の気が引けない範囲で望むものを何でも与えてくれる。僕は嬉しくてお礼をせずにいられない。それをまた、彼女が喜んでくれる。循環しつつ、複利効果のようなものを生んでいる。

今後に向けて

彼女との関係性において、今後自分が傲慢になるということはあまり考えにくい。彼女という存在に甘えているところはあるが、彼女の厚意を無下にしたり、人格を蔑ろにしたり、そのような形で彼女との関係に甘えることはないだろう。それは自分自身がやられてもっとも気分を害することだから、自分がやられて嫌なことを相手にするなんて、自己矛盾が生じる。

それは多分彼女も同じで「僕たちは互いにそういうことをしない」という信頼関係が成り立っている。この信頼は、単純に相手が裏切らないことを信じているとかではなく、お互いがどういう人間かを知っていることで成立している。僕たちは相手の人格を蔑ろにするような行為や、相手を傷つけるような行為には生理的な嫌悪が働く。そういう生き物だということを互いによく知っている。反対に、相手を尊重し続け、肯定し続け、相手がより心地よく、快適に過ごせるように日頃から努める人間だということも知っている。その上での信頼、もとい安心感がある。

彼女は器が大きく、誰に対しても分け隔てないところがあるが、僕は全くそうではない。僕が相手に対して誠実なのは、飽くまで自分がそうなれる対象に対してだけであり、誰に対してでも普段からそんな聖人みたいな振る舞いを行えるわけではない。つまり僕においては、相手が彼女だからこそ今の自分でいられる。彼女のような人でない相手にはもっと雑な態度をとってきたし、ひどい対応もしてきた。自分の行いを責任転嫁するつもりはないが、「他人は鏡」とはまさにこのことだろう。

言い訳するつもりではないが、僕が彼女のように誰に対しても誠実に接しないのには理由がある。一つは、自分があまり大切にされてこなかったから。家庭環境において、自分は愛され大切に育てられたが、社会環境においてそんなことはなかった。自分という人間が大切にされている、尊重されていると感じる瞬間はほとんどなかった。僕は器が小さいため、自分の人格を尊重しない対象に対して誠実にはなれない。「まず自分からだろ」と思う人がいればもっともだと思う。しかし、僕自身はそもそも人から認められたいとか愛されたいとか尊重されたいなどと思っていないから、興味がない人同士ならお互い誠実でないぐらいがバランス取れていて丁度いい。虐げられたり排斥されるのはさすがに困るが、どうでもいい人からは干渉されなければそれで十分だ。

そして彼女はというと、愛されて育った。誰からも好かれる、どこにいても万人から愛される人だ。器が大きく、人を包み込む寛大さと優しさがある。分け隔てない。だからこそ尚更周りから好かれ、あらゆる人が心を開く。そういうことを言うと過大評価だと言われるが、少なくとも僕が基準であればそうなる。そして彼女は、自分のことを好きではない。人からはすごく好かれるけれど、自分で自分を嫌っている。

僕はそういう彼女を愛おしく思い、彼女が自分自身を肯定できない以上に、彼女を肯定しようと思った。今のこの気持ちをこれからも忘れないよう、胸にとどめておく。