ヒトコトへの回答㊷:エルピスに感じた歪さ

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91通目:エルピスに感じた歪さ

エルピスを観た感想が知りたいです。

エルピスは2話しか見ていないんだけど、今日その2話を見ているときに、変な感じがした。タイトルにあるように、いびつだなーと思う部分があった。ドラマ自体はシンプルなストーリーで、テレビ局に勤めるキャスターとアシスタントが冤罪事件を調査し、真相を暴こうとする話。

違和感を覚えたのは、2話の中の回想シーンだった。長澤まさみ演じる役が、若きニュースキャスター時代に報道したニュースを思い返している。その内容とは、東北地震直後の「福島第一原発は直ちに問題はない」というシーンと、2020東京オリンピックを喜ぶシーン。これは現実にあった報道内容を、番組内でオマージュというかアレンジしている。

このドラマでは、長澤まさみ演じる役が、過去に自身が加担していた偏向報道に嫌気が差し、局でなんとか正しい報道?ジャーナリズム?を取り戻そうと奮闘するような話の流れ?になっている。最後まで見ていないからわからないが。

少なくともこの回想シーンからは、福島第一原発が問題ないと報道していたのに、実際はその後大変なことになった、東京オリンピックについて華々しく報道していたが、現実は真っ黒で汚職にまみれ後に逮捕者まで出た、それをあたかも問題ないように報道していた、それらの偏向報道に自分が加担したことを、長澤まさみの役が悔やんでいる、そう読み取れる。

この2話の回想シーンで僕が感じた違和感は、このドラマは何がしたいの?という違和感だった。現実にあったニュースが、あたかも偏向報道であったかのようにドラマ内で演出する。それを思い出す長澤まさみは、嫌な顔をする。間違った報道をしていた過去の自分を塗り替えたいと思う。そういうシーンだったと思う。この演出を、現実にこういった報道を行っていた、言うならば偏向報道を行っていた当事者であるテレビ局が、ドラマのワンシーンとして描く意味はなんなのか。

もしテレビ局が、自分たちが行っていた原発なり東京オリンピックの偏向報道を反省し、見直し、今後はジャーナリズムに徹するという決意があるならば、こういった娯楽作のワンシーン演出として描かないだろう。メディアが本気で偏向報道に問題意識を持ち、省みる気があるならば、公に間違いを認め、謝罪会見でも開き、責任者は責任をとって経営陣を総入れ替えなどし、今後はジャーナリズムに徹する決意表明でもして、局を立て直すのが筋だと思う。

しかし実際にやっているのは、フィクションのドラマの中で、キャスターが悔いているワンシーンを描くだけ。局員が、メディアが反省するという姿さえも、ドラマという商品の中で消費物として描いている。テレビ局は、このシーンを描くことが商業的にプラスだと判断して、GOを出した。

つまり、テレビ局は偏向報道を反省するつもりなど全く無く、反省する姿さえも売り物、金儲けの手段にしてしまっている。なぜわざわざこんなことをするのか?それが、今、視聴者に求められている、つまり商業的にプラスになると判断した結果だろう。ドラマはフィクションであり、エンタメ作品である。有名な俳優を起用し、視聴者を喜ばせることが目的で、このドラマは報道でもジャーナリズムでもドキュメンタリーでもない。架空の娯楽である。お金のために、自社の過去の失敗、間違いを正す架空の物語を商品として売り出す様子を、このドラマで見せている。

僕にはこのドラマが、「ジャーナリズムを取り戻せ!」という主張さえ、金儲けの道具にします!それぐらい商業主義に走ってます!というテレビ局のアピールに見えた。そんなことに、なんの意味があるのか?この「自己否定を売り物にしてますアピール」が、僕がイビツと感じ、破綻していると思った部分だった。自虐なのか?

ロシアでは、プーチンに暗殺されようともジャーナリズムに徹するジャーナリストの姿がたくさん報じられてきた。暗殺されることがいいことだとは思わないが、ロシアのジャーナリストがジャーナリズムに殉じている一方で、日本のメディアは自らジャーナリズムを、その間違い、失敗を認めつつもパロディーにして売り出している。めちゃくちゃ歪んでいる。行き過ぎた商業主義に、狂気すら感じる。

僕はこのエルピスの歪さを感じたとき、太宰治のいびつさを思い出した。太宰治の後期は、原稿料を家に入れずに飲み歩いてばかりいた。奥さんと子供が貧困に苦しんでいる中、太宰治はその姿がつらいと言いいながら不倫をしたり、飲み歩いたりして散財していた。そして、その様子を小説に書いていた。「桜桃」などが有名だ。これって一体どういうこと?と、読んだ当時僕は思っていた。わけがわからない。

太宰治は家にお金を入れ、家族をまともに養えば、つらい思いをしなくて済む。不倫も散財もしない。でもそれでは小説が書けなかったのだろうか?生活が破綻している。挙句の果てに太宰治は、不倫相手と心中した。遺書には

「美知様(奥さん) お前を誰よりも愛してゐました 」

と遺している。わけがわからん。これを受け取った奥さんは、どんな気持ちだっただろう。わざわざ自分の家庭を犠牲にして苦悩し、それをネタに小説を書く太宰治の姿は、芸術家にはよくある姿かもしれない。かたやエルピスは、劇中でテレビ局を批判しており、局がそれを採用してエンタメとして商品にすることで、自己批判さえも金儲けの道具にする自分たち、をアピールしている。企業がそんな狂ったピエロみたいなことをして、一体何の意味があるのだろうか。

これまでのヒトコト、回答をまとめました。