エロい男論について

先日エロい男論を聞いて、よくある話だけど、目からウロコなところもあったから、整理してみたいと思った。

その人いわく「男性は根本的な願望として、興味の湧くたくさんの色んな人と手当たり次第セックスしたいもんだ。でもそんな自由にはできないから、あの手この手を駆使してそれに近いことを実現しようとする」。

一部の男性は、女性と簡単に性愛関係に持っていきやすいように努力をする。身だしなみを整えたり、話術や心理の手練手管といった、いわゆるモテの技術を磨いたり。昔一部で流行した恋愛工学なんかはわかりやすい例かもしれない。

女性相手に限らず、人の心の扉を開く手順というのはある程度型があるみたいだ。それを経験で学ぶ人もいれば、学問で学ぶ人もいる。人に好かれたり人と仲良くなることは、見た目とか性格とか相性にかかわらず、技術でなんとかなる部分が多い。

エロい男、たくさんの性愛関係を結ぶことに喜びを感じている男は、持って生まれたものに加え、そういう技術や経験を駆使して次々と積極的に性愛関係を結んでいく。その話はわかりやすい。

現実としてそういう行動は恨みを買うことも多く、若いうちはいいかもしれないが、ずっと続けているとそのうち身を滅ぼすことになりかねない。だからエロい願望があったり技術を持っていても、だんだんやらなくなる。妻子がいたり社会的な地位があれば尚更、願望のまま振る舞うことはやめて、自らのエロさを封印しているのが世の一般男性の姿かもしれない。

ここまでは普通の話。しかしここからが、先日聞いたエロい男性論の真骨頂だった。エロい男性とは、何もいろんな人と性愛関係を結んでいる人だけではない。性交渉はしていなくても、エロいもんはエロいという話だった。

そもそも性交渉の本質とは何か。言うまでもなく、子供を作ることにある。性交渉のフィジカルにおける本質は、子作りにある。では、メンタル的な本質は何か。性交渉における精神面での本質は、快楽の共有、もしくは共感による、一体感にあると思う。性交渉という性愛行為により、お互いが同時に快楽を共有するという一体感を得ることで、相手と自分をつなぐ(と錯覚する)ことが、性交渉の精神面における本質ではないだろうか。

同じ体験と感覚を共有することで、自分と相手が一つになれたと錯覚する行為。それは何も性交渉に限った話ではない。デートの時間を過ごして、お互いが楽しく満ち足りた気分になる。この時点で既に、相手と自分の心が繋がったと錯覚している。もっと直接的な話で言うと、会食などがわかりやすい。食事は食という快楽を共にするもっとも典型的な手段の一つにあたる。なぜ人は、共に食事をするという行為をこれだけ重視するのか。それは食の快楽を共有することにより、お互いの心の壁を取っ払うことができるからだ。この行為は果たして性交渉とどれだけ差があるのか。

もちろん飲酒、喫煙もそう。ダイレクトに快楽を共有することで、互いの一体感を得ている。一緒に映画を見て感動するとか、スポーツをやるとか応援するとか、音楽のライブを見て一緒に熱くなる行為も、快楽の共有による一体化という点においては性交渉と変わらない。

もっと言えば、会話自体がその行為と言える。よく知らなかった人と、ちょっと話して笑って打ち解けて、仲良くなった気がした。これは性交渉と本質的にはなんら変わりない行為だと言える。

冒頭のエロい男論に戻ると、だから、いつもいろんな女の人とたくさん話している男は、ただのエロい男だということになる。世の中の制約に則って性交渉はしていなくとも、やってることは、不特定多数の女性と致して自分の性欲を満たしている男と本質的に変わりない、ただのエロい男だ。

話し上手で、いつもいろんな人と楽しそうに会話している男はただのプレイボーイではないか!というのが先日聞いたエロい男論でした。

人が人をそういうふうに見てるっていう点において、僕にとっては目からウロコでした。

こういうのって、人はどこまで意識的というか自覚的なんだろ。似たようなことを、以前に書いたことがあった。