「俺は駄目なんだ……なれないんだよ……善良には!」
「地下室の手記」は読むのが大変だった。おもしろくないとか文章が読みにくいとか、話がややこしくてわかりにくいとかそういうわけではなく、目を背けたくなるような内容だから読み進めるのが苦痛だった。ある意味で刺激が強い、というか、テレビや映画などでよく目を背けたいシーンがあるだろう、そういう感じだ。それは決して、映像としての残酷な描写が多いからじゃない。精神の奥底をえぐられるような、これ以上白日のもとに晒すのはやめてくれと叫びたくなるような、思わず本を閉じてしまうような、そういう内容だった。ただ実際は2日で読んでしまった。ページも141ページと多くない。光文社古典新訳で読んだが、19世紀に書かれた本だから時代の違いと現代語の翻訳にちょっと変な感じがあった。それでもおそらく読みやすいのはこちらのほうだろう。これは別の訳で読んでみるとまた全然違ってくるだろうから、別の訳でも読んでみたい。
まっとうな人間が、心から楽しみながら話すことのできる話題とは何か?
答え──それは、己についての話である。
「地下室の手記」は、最初の方が結構わけわからなかった。独白調の小説なんだけど、特に序盤1/3は何が言いたいのかわからなくて混乱する。このあたりは後になって効いてくるというか、もう一度読み返したときになんとなく掴めるようになる。初回は読み流すように進めていくしかなかった。物語は典型的なドストエフスキー風のダメな男の話。「罪と罰」のラフコーリニコフを不細工にして地味にして臆病にして才能を剥ぎ取ったような男が、地下室で独白調の手記を書いている。年齢は40歳で、当時の平均寿命がだいたい40歳ぐらいだったから今で言うところの初老に入る。そんな男が自分の価値観と、世の中に対する批判と、若い頃の体験談、それもかなり痛い、己の恥を暴露するような体験談を語っている。これが本当に痛すぎて読んでいられない部分だ。つらい。でもそれをつらいと思うのは、自分や周りにおいて思い当たるフシがあるからであり、こんなことを書いて許されるのはこれがドストエフスキーだからじゃないかと思ってしまう。それをただの恥の独白で終わらせない、裏の裏の裏まで包み隠さず書いてしまっているから、露悪趣味だと思って目を背けてしまえばその先にたどり着けない。
なにしろ苦しみといえば、これこそが意識の唯一の根拠なのだから。
主人公は、いわゆるインテリだった。親はおらず、誰からも愛されたことがなく、勉学で見返してやろうと性格がねじ曲がってしまっている。なまじ頭がいいだけにやりきれない。この世の幸福を求めながらも、それにまつわる退屈に我慢がならない。そして現実には自分が決して幸福な立場にあやかれないことにも我慢がならない。そういった矛盾の塊で、矛盾を愛しつつも憎んでいる。だから人間関係なんてうまくいくはずもなく、うまくやろうという気持ちで行動しながらちゃぶ台を引っくり返し続け、もうそれさえも見抜かれ人々は愛想を尽かし、嘲笑の的になる立場にい続ける。彼のことは、誰もまともに相手にしない。そして初対面の人間に対してもそういうヒステリーを演じることで、愛想を尽かされてしまう。そのことを強く恥じながらも、憎しみでどうすることもできず、行き当たりばったりの過剰な精神と振る舞いに費やされてしまう。えぐい。人間のえぐさと社会のえぐさを過剰に演出している。こんなヤツいねえだろと思いながら、そこかしこが自分の心情や行動と重なり、やめてほしい気持ちで一杯になる。その先は、恥の上塗りになるから、これ以上前に進むのは、しかし彼は過剰な怨念からどこまでも突っ走っていく。あとに残るのは後悔ではなく、どうしようもなさ。彼にはその過剰な精神から、他の選択肢がない。押しとどめておくことなんてあり得ない。それこそが彼の喜びであり、憎しみであり、行動原理でもある。
ただこういう過剰な人間物語は全部おまけというか、この本の筋は全部序盤に書き尽くされている。物語部分はいわゆる"例文"であって、例文を踏まえてもう一度話の筋を振り返ったときに、この本に何が書かれていたのか読み解くことができる。一読した後に再び第一部を読むことをおすすめする。それにしてもこの、たかが"例文"があまりに過剰で刺激が強かった。
キリストの教えに従って己を愛するように人を愛することは不可能だ。この地上では個の法則に縛られ、《我》に阻まれるからだ。キリストのみがそれをなし得たのだ。しかしキリストは永遠の理想であり、人間はキリストを目指しており、また自然法則によって目指さなければならない。キリストが人間にとっての現実の肉体をもった理想として現れて以来、個性の最高にして究極の発達は、(中略)人間が《我》を無にして、それを完全に没我的にすべての人々、あらゆる人に委ねるところまで到達しなければならないことは、火を見るよりも明らかになった。そしてこれこそが、最大の幸福なのである。このようにして、《我》の法則はヒューマニズムの法則と溶け合い、この融合のうちに両者が、つまり《我》も《皆》もが(両者は一見、対立するものであるのだが)、互いが互いのために無になり、と同時にそれぞれが己の個人的発達の最高の目的を達成していくのである。これがキリストの楽園である。