今日また雪が降った。先々週にも降った。寒い。寒すぎる。桜も咲いているというのに。
写真は2022年、バンコク。バンコクは当時まだマスクが主流だった。今はどうなってるんだろう。日本でもまだ高齢者はマスクをつけている。オフでは外していても、仕事中はつけている人も多い。ワクチンを打ち続けている人もたくさんいる印象。インフルエンザも長く流行している。コロナほどではないにしても。
アニメがもうすぐ終わるそうだ。僕はこの先の「黄金郷のマハト」編がけっこう好きだから、ぜひ続きもやってもらいたい。原作はサンデーうぇぶりで読める。今も続いている。
葬送のフリーレンはなぜこんなに面白いのか、なんて話はきっと出尽くしていて、アニメが話題になってから今さらだし、僕はそういう考察が得意なわけでもなんでもなく、思ったことを残しておく程度。出遅れて今から入る人には参考になるかもしれない。あ、ネタバレはしてます。
知人がボイスメッセージを送ってきた。オーストラリアにいたとき、同居人のドイツ人が女の子とよくボイスメッセージでやりとりしていた。テキストではなく。
知人はこの2年半シュトゥットガルトの大学院に通っていて、今修論を書いているそうな。それで春からミュンヘンで働くことが決まり、東南アジア担当になったとか。しばらくはミュンヘンにいるから、直行便もあるし遊びに来て、ということだった。いや、まあ、行かないだろうな。一ヶ月ぐらい金と時間と精神と肉体の余裕があったらついでに寄っていたかもしれないけど、そういうのやってたのは10年前の話。
写真は2019年、ガーナ。乗合バスの乗り合い所というか、ターミナルというか、ステーション。
仮想通貨を売っぱらったお金で(言い訳)またもや写真集を買った。アメリカンニューカラーのどれかをほしいと思っていて、結局スティーブン・ショアにした。アンコモン・プレイセスとトランスペアレンシーズとも迷ったけど、唯一サイン本が残っていたスチール・タウンにした。
スティーブン・ショアの作風からしてメジャーなのが、アンコモン・プレイセスやトランスペアレンシーズになってくるだろう。絵的にも鮮やかでわかりやすく映える。それに比べて僕が買ったスチール・タウンは、寂れていく町を撮っている分色合いも地味で、落ち着いている。どちらかというとマイナーではないだろうか。
それにしてもこの、なんてことない町の写真をポスターみたいに撮ってしまうのが、技術というか腕というか機材というか、目なんだろうなと思った。そこに特別なものは写っていないのに、部屋に飾りたくなるような。
自分たちが知っている年代の人が亡くなる歳になってきた。中でも鳥山明は若い。
僕は完全にドラゴンボール世代でドラクエ世代だから、鳥山明=ドラゴンボールで小学生の頃の記憶と紐づいている。カードダスを集めていたし、自由帳なんかにはドラゴンボールの鳥山絵を真似して模写していた。クラスに2人か3人は鳥山絵がめちゃくちゃ上手いやつがいた。
ドラゴンボールのアニメは、僕は習い事に通っていたため風邪で休んだり習い事が休みの日にしか見たことがない。だからアニメではなく、主にジャンプで読んでいた。コミックスは、実は買ったことないかな。でも誰の家にでもあったし、全巻通して何度か読んでいる。小学生の頃の話題も、ジャンプが中心だった。アニメよりも先を行っていたから。
発売の月曜日には、フラゲ組からのネタバレがうっすら聞こえてくる。でもはっきりとは聞かずに、学校が終わってから本屋で買って自宅で読む。今日あいつらが言ってたのはこのことだったのか!毎回ネタバレしていたわけじゃないけど、「ヘルズフラッシュって何や…!」とか聞き耳を立てていた。僕が小学生のときにフリーザ編が終わりに差し掛かっていたから、それ以降が思い出深い。それ以前はコミックスで読んだ。
GTはチラッとしか見ていない。スーパーも軽く読んだぐらい(全部追いかけていない)。僕の中のドラゴンボールは42巻で終わっている。トランクスの未来の話「たった一人の戦士」がけっこう好きだった。
写真は2024年、比叡山と宝ヶ池。
2010年前後
これまでにも写真集は買ったことあるけれど、たまたま見かけて買ったものばかりだった。「写真集を買おう」と思って買う最初の一冊は、ダイアン・アーバスしかない。理由はまず、テーマがわかりやすかった。写真のことがわからない自分にも、とっつきやすいのではないか。次にそのテーマが自分にとって、親和性が高いと思ったから。
ダイアン・アーバスはヌーディストや障害のある人、双子などを撮った写真が有名で、亡くなってから回顧展が開かれ、写真集が出た。亡くなってから有名になった人っぽい。どこかで「アウトサイダーを美しく撮る人」みたいに書かれていた。被写体と親しくなり、その魅力を引き出して本人に喜ばれる写真を撮ったとか。
アウトサイダー・アートという言葉を一時期よく見かけた。それはアウトサイダーが作るアート作品、みたいな意味だったと思う。今調べてみると、その言葉はどうやら日本とそれ以外で使われ方が違うらしい。ダイアン・アーバスの写真もそういう文脈で語られているのを見かけたが、今ここではアウトサイダー・アートのことはひとまず置いておく。
ダイアン・アーバスは被写体にアウトサイダーとしての自分を見ていたのではないか、みたいなこともどっかに書かれていた。撮影者の目を通して撮られた人たちが、撮影者そのものを表しているなら、それを見る自分は一体誰なのか。
アウトサイダーを撮るダイアン・アーバス、の写真を見る自分。写真を通して、自分のことがわかるのではないか。「アウトサイダーとは、自分のことではないか?」という気持ちが、撮影者と同様自分にもあるから、きっとこの本を選んだのだろう。世界的に広く読まれている写真集だけど、見る人がみんなそういう気持ちなのだろうか。アウトサイダーとしての自分を見つめるための本として、手に取っているのだろうか。
ダイアン・アーバスについて書かれた本も気になる。
FF7リメイクの続編が出た。FF7は中学生の頃に学校を休んで買ってプレイした思い出がある。それが現代の技術で甦ったFF7リメイク、リバース共に、いつかやりたいと思っているけれど、ハードを持っていない。シェンムー3もやりたいけどハードを持っていない。こういう作品って当時のプレイヤーとしては有り難いんだけど、今買ってプレイするのもやはり当時のプレイヤーなのだろうか。リメイクから入る人もいるのか?僕としてはやはり、懐古的な楽しみが強い。それだけに、原作というか当時のゲームに忠実という評判を聞くと、なおさら手を伸ばしたくなる。しかしゲームハードがない。ゲーミングPCもない。このためにPS5を買う人だっているのか、それはさすがにもったいないというか、持ち腐れになる。
写真は2016年、ニンビンです。
今日は二日酔いと落ち込みで一日終わった。ブルースを聞いていた。まだ全然聞いたことがなくて、ブルースはさすがに全部同じに聞こえる。他のジャンルよりもより顕著に。
写真は2014年、トロント。ハイパークという公園の池。