今でも覚えている経済学で習った概念

大学で習ったことはもう何一つ思い出せないと言っていい。高校もそうだ。微積なんかもうできない。
大学は経済学部だった。僕は昼のバイトをしていなかったことや、家から学校までバイクで5分だったこともあり、他の人より出席していた方だと思う。にも関わらず勉強した内容は何もかも忘れてしまった。継続していないことは日が経つに連れ記憶から抹消されていく。ただ、今でもかろうじて覚えていることが、経済学の考え方として超基本的な事でいくつかある。これは働いていた頃にもよく考えを整理する時などに使った。

効用

何よりも効用だ。効用無しに経済学を語る事はあり得ない。効用最大化や限界効用などが経済学の入り口でありゴールでもある。
では、効用とは何か。それは満足度を無理矢理数値化しようという試みだ。意味がわからないと思うが、経済学はお金を扱う学問になるけれど、どうやってお金を増やすかが最終目標ではないのだ。経済学なのにお金がゴールじゃないって、じゃあ一体ゴールはなんなの?実はそれは、幸せなのだ。お金というのはその、幸せを得るための一手段に過ぎないというのが経済学の基本的な考え方だ。例えば、そもそもお金を稼ぐ意味とは何か。それは基本的には使うためだ。お金が一番大事でお金さえ増やせばいいというのであれば、人はサービスなどにお金を使ったりしない。お金が減ってしまうからだ。お金を減らしてでもサービスを買ったりするのは、お金が一番大事ではなく、幸せが一番大事だからだ。
その幸せを数値化したものが効用というわけだ。え、何でそんなものを数値化するのかって?出来るわけないだろうって?それは出来ると仮定するのです。経済学は社会科学の中で最も数式やら計算が出てくる学問です。そして理論として組み立てるにはそれを証明しなければならない。そのために数式、そして効用という概念が必要になってきます。

ゼロサムゲーム

参加者全員の利益を合計すればゼロになるという状況を指している。誰かが+1の利益を得たら、必ず誰かが-1、もしくは2人の-0.5など不利益が生じて合計がゼロになる。勝者と敗者だけで成り立っている状況だ。
ギャンブルなどがそうで、たいていは胴元に一番利益が出るよう設定されており、残りの利益と不利益をゲームの参加者が分けあう。それ以外の一般的な市場においても短期的な視点で観測を行うとゼロサムゲームになりがちだ。誰かが得をした分、必ず誰かが損をしている。ゼロサムゲームは全体として利益がゼロであるため、いかにこの状況に参加しないか、作らないかがポイントになる。誰かが損をして自分だけが得する経済活動というのは、世の中全体に対して利益をもたらさない反社会的活動とも言える。
ゼロ和 - Wikipedia

トレードオフ

トレードオフの関係にある、というような使い方をする。ゼロサムゲームと規模は違うが少し似ている。トレードオフとは、どこかを強化するためにはどこかを犠牲にしなければいけないというその2つの関係性を現している。
例えばある製品の性能を向上させようとした場合、スピードを上げようと思えばその分正確さが損なわれるといった関係が当てはまる。さらにスピードも正確さも同時に上げたければ、そのための開発に要する時間やお金を費やさなければいけなくなり、今度は性能とコストがトレードオフの関係になる。僕がそこから感じたのは、世の中どっちも得ようなんて都合のいいことはできないということだ。
都合のいい結果を得ようとすれば必ずそれに見合った何かを失うということを念頭に、まずは何が失われるかということを把握した上でそれでも追求する価値があるか、その犠牲は見合った犠牲であるかどうかを判断しなければならない。
トレードオフ - Wikipedia

比較優位

比較優位は貿易の講義で習った。産業の転換と貿易に絡めて、衰退産業に対していつまでもコストをかけて雇用やシェアを維持するより、優位性の高い産業に特化したほうが相対的に国力が上がるとかそんな内容だったと思う。wikipediaを見れば、資源やノウハウも含め比較優位な産業に対して各国が特化し、国際分業を行ったほうがそれぞれの国で効率や利益が上がるということだった。
僕はこれを会社内での人事や配置についても当てはまるんじゃないかと思った。総合職はどうしても、何でも出来る人が求められ育てられる傾向があるけれど、そのうち得意分野は必ず出てくる。さらに年齢差などで特化できる分野や知識の範疇も違ってくる。誰にでも何でもできることを求めたり前提にするより、割り切って分業したほうが効率的なのになあなんて思っていた。部署分け以上の制度化は難しいか。
比較優位 - Wikipedia

モデル化

モデル化は科学の基本となる。カオスである現実を前提に議論を進めると、話は何もまとまらない。モデル化というのはある理論を導くための仮定となる単純な状況を作り上げることを指す。
理論というのはある一定の前提条件下でしか成り立たない。どんな条件下においても成り立つ理論というのは存在しない。だから、理論を導くにあたっての前提条件を限定してしまう必要がある。物理学や経済理論においては理論を導くために現実では起こり得ない状況が仮定される。摩擦ゼロとか、すべての人間は合理的行動を取るとか。
実際のところ経済理論のモデル化と僕が感じ取ったこととは全然違うんだけど、例えば何か企画をする時に、対象となるモデルを設定する。その後、そのモデルに沿って企画を成功させるための案を立てていく。モデルの要素がシンプルで範囲が狭ければ狭いほど汎用性は低く、より正確な案を組むことができる。モデルが大まかであれば汎用性は高いものの、結果にブレが生じる。計画を見直す時はモデルの設定が正しいか、次に案がモデルに沿ったものになっているか、この二点が重要となってくる。
参考:経済モデルとは何か - himaginaryの日記

実際に習った経済学に則して、僕の考えがまとまっているかというとそうでもない。だから大学で習ったことが現実に役に立ったと言うには、僕はあまりにも力量不足だ。実際大学でやっていたのは記号の計算ばかりで本当に何も覚えていない。本当に役立てる人はこんなもんじゃないだろう。ただ、そんな力不足な僕にも考えるヒントを与えてくれた。パイの奪い合いとかレモンの市場とかパレート最適とか、基本的な概念は今でも頭に残っている。

社会に出て理屈を述べると嫌われることが多い。そんなことはわかっている、と。誰も彼も結果しか求めない。いかにコストをかけず、利益を出すか。「がんばります」と言ってしまうのは簡単だが、頑張っても意味が無い。結果だけが求められる。
「こうします」という結論だけを聞いて後は任せるという人もいれば、「どうやるの?」と聞いてくる人もいる。どうやるか、は常に考えておかなければいけない。「やるしかない」は結果の出ない無責任な言葉となる。戦略を立てる時にいつもモデルを描いていた。短期的なパフォーマンスを求められた時、ゼロサムゲームが頭にあった。打開策が求められた時、トレードオフの関係をもって犠牲になるものと得られるものを説明していた。