「常識なんかクソだ」を貫きたかった

子供の頃からよく、常識がないと言われていた。親にもよく「そんなの常識だろ」と言われていた。学校でもよく「常識がない」と言われていた。単に協調性がなかったり人に合わせることができなかっただけの部分もあったが「なんで?」「何が悪いの?」「なぜ怒ってるの?」と問えば「常識だ」「それぐらいわかるだろう」と言われた。「は?常識って何?俺には全然わからない、常識なんかクソだ」と思っていた。そして薄ら笑いを浮かべ「へえ、常識なんだ笑」と蔑んでいた。

そのまま年をとった

今でも常識というのは理解できない。そこは変わっていない。人が当たり前のように感じ、当たり前のように考え、当たり前のように共有している常識というものを僕は持ち合わせていない。ただ子供の頃のように「常識なんかクソだ」という態度は取れなくなった。今となっては、わからないなりにも常識に合わせている。これは本当に残念なことだ。僕は言うならば、年齢を重ねると共に常識に屈服してしまったといえる。そのセンスを持ち合わせることなく、合わせざるを得ないというのは如何に大変なことか。

しかし本当に残念なことは、常識の代わりに持ち合わせているものも、全然大したことがなかったというところだ。世の中で偉業を成し遂げた人というは皆そういう常識に縛られていなかった。だが僕は彼らではなかった。ただの非常識な奴だった。彼らのような頭脳や才能もなければ、最終的には彼らのように自己を貫くこともできなかった。

やはり常識はクソだったんじゃないか

今となって思うのは、子供の頃の「常識なんてクソだ」という精神が本当は正しかったのではないかということだ。この手の話は常識にどっぷり浸かった、それが大人だと信じる人たちには理解できないかもしれない。いや、本当は彼らだって常識の前に息苦しく感じているはずだ。ただその染み着いた常識に抗えないだけで。

唯一僕に残っている前向きな部分というのは、誰に対しても常識を求めないというところぐらいだろうか。理屈を求めることはあっても、得体の知れない「常識」を理由に何かを判断したり評価するということはない。それは僕がやられて一番嫌なことだったから。

おまけ:外国の話

ちなみにこっちにもコモンセンスという言葉がある。昨日一緒に飲んでいたカナダ人とその彼女が、酔っぱらいの若者二人組に絡まれ、若者が彼女の足を触ろうとしてカナダ人の男はブチ切れていた。「自分が彼女連れていて同じことされたら怒るだろ!そんなのコモンセンスだ!そんなことも分からないのかよ!バカか!」みたいなことを言っていた。それ聞いて僕は口では同意していたが「自分には無い発想だ」と思っていた。

WEBマガジン出版翻訳 Did you know that?-コモンセンスと常識の違いは?

こっちは移民国家なので、常識やマナーやエチケットというは各文化ごとに存在する。宗教も文化も民族も違うと、同じ国に住んでいてもお互いに何か共通の価値観を共有するなんてことは有り得ない。僕にはその支柱となるような文化もないが、決まりきった常識の無い場所というのは居心地が良い。
日本が異常だとは言わないが、空気と常識が支配する国は僕には生き難いところだった。