美醜の感覚について

自分の美醜感覚はかなり疎い方だと思う。僕はその、人を見てもあまり綺麗だとかブサイクだとか思わないことが多かった。今も多分そうだと思う。何も思わない。僕は視力が良い方なので、どちらかというとディテールが気になってしまう。この人の眉毛は描いているの丸出しだな、とか、髪が傷んでいる、とか、眼球の白目部分が赤い、とか。だから、誰が美人であるとか、言われるまで気づかない。言われても気づいていないのかもしれない。「この人が美人である」という情報を外部から取得して初めて認識しているのかもしれない。誰がかわいいとかかわいくないとかよくわかっていない。

 

だからなのか、だからではないと思うが、僕はその、人に声をかけたりしない。用事がなければ。隣りに座った人に申し訳程度に喋る時も、大抵顔は見ない。僕は顔を見て人と話せない。人の顔を見ると顔を見ることに集中してしまって思考が消し飛ぶから、何もない場所を見て考え、そして口にする。そして話す時だけチラッと見る。ああ、今この人と話しているんだと確認しながら。そしてすぐまた目を背け、自分の思考に戻る。相手の目を見ていれば話を聞くこともできない。失礼だと思うがそうでもしないと話はできない。

今までにも何度か引用したが、美醜の基準というのは時代が決めるらしい。何によって決められるかというと、その時一番力を持っている人々が基準となるそうだ。例えば日本において古来最高権力者だった皇族が、日本の美の基準となっていた。お雛様みたいな顔、目が細く一重の切れ長で、額が広く眉との位置が離れており、太い塊のような眉、こういう顔が一般的にモテていた、というか美人の基準だったそうな。今では考えにくい。今一番力を持っているのは、世界的に見てコーカソイド、白人の顔だ。金髪、碧眼、背が高く顔が小さく筋肉質で長い手足、彫りが深く高い鼻、フランクで理知的でスポーツマンで多趣味、家族思い。現実はどうあれ人はそういう像に憧れを抱き、もしくはそういう像を目指して少しでも近づけるよう努力する。これが現代の姿だと思う。顔から少し離れたが。

僕は鼻の穴の形フェチなんだけど、これもある種の白人コンプレックスの現れであるとも言える。あまり僕の好きな鼻の穴の形の人はいない。そう、何の話だっけ、美醜の基準というのには普遍性がない。毎年流行のファッションが変わるように、過去のファッションスタイルを見て「うげえなんでこんなのが流行ってたんだ」と思うように、顔の流行りも変わっていく。これはまあなんというか、生物の競争の本能とでも言うのか、多くの事例の中で人が認める基準から抜きに出たものが優良種であり、今後自らのDNAを発展させていくにあたりより優れた遺伝子であろう、より生き残りやすい、広範囲に根強く子孫が残せそうな種として判断され、そこへ応募が殺到する。

男性が若い女に群がるのもその理由からだ。種の保存に対してより有効なのは、遺伝子もさることながら若く健康的で活動期間の長い肉体である。男性がいかに年をとろうとも若い女性を好むのは、それが遺伝子の選択だからなのだろう。遺伝的優位性を持たない下等種である私のような遺伝子は、本来なら他の下等種に混じって人一倍の努力をしてなんとか種の保存に漕ぎ着けることが生物の本来としての役割なのだろう。しかし、僕の遺伝子には悪いが、僕はその手の賞レースに参加したことがない。

一般的に、男性は女性の顔、もしくは見た目を見ると言われている。そして女性は男性の金であったり、安定感を見ると。その生物学的根拠というのは僕は知らないものの、おそらくはその利己的な遺伝子の作用から来ている。ではそれ以外の要素というのはいったいどこから来ているのだろう。例えば、僕の言う鼻の穴の形であるとか。僕は鼻に持病を抱えているため、それを補う要素として遺伝子が選んだのかもしれない。背が低い人が背が高い相手を好きになるように。そういうことを踏まえると、世間一般で基準となっている美醜の感覚もさることながら、自ら抱く独自の基準というのも、自身にとってはあながちバカにできない。みんなから美人と認められることは確かに、種を安定的に発展させるにあたって有効ではある。それは何も自慢するためのものではない。同時に人が見ない部分、自分だけにとって大切な部分というのも、種がお互いを補い、今後安定的な発展を望むにあたって、種の保存相手を選ぶ基準として十分に作用するのだ。バランス的にどちらが大事になるかは、自分にもよるし相手にもよる。そのあたりは間違えながら修正していくしかない。正直僕には関係のない話だった。