人生について真面目に考える時期は終わった

僕の「何事にも一生懸命に取り組めない」という性質は幼い頃からずっと、おっさんになった今でも続いている。仕事や勉強もそうだったけど趣味やスポーツについても同じで、ずっと変わることがない。人生について真面目に考えたのは、就職活動の頃や働いていた頃が最後だった。何とかしようと思っていたけれど無理だった。それ以降はもう成り行き任せというより、死ぬまでどう過ごすかという事しかない。

人は本当に簡単に死ぬ。今こうやっている間に何人の人が死んでいっているだろう。死因は様々だと思う。病気、老衰、飢餓、戦争、事故、事件、自殺、身の回りでも多くの人が亡くなっていることかと思う。死を身近に感じだしたのは思春期ぐらいからだろうか。特に自殺について思いを巡らせていたのは、高校生当時に本を読みまくっていた影響が強い。彼らに同調してしまった。

自殺未遂をしたことはなく、身近な人が自殺したということもないけれど、その少し離れた周りでは幾人かの人が死んでいた。僕自身が「あれ、もしかして俺自殺するんじゃね?」と一番感じていたのは会社員の頃だった。まるで他人事のように見えていた。その時僕の中では二択になった。会社を辞めるか、そのままだと死にそうなのを放っておくか。僕は死なない方を選び、仕事を辞めた。そのことについては今まで何度も書いた。

「放っておけばそのうち死ぬ」となぜそう思ったのだろう。死ぬほど激務というわけではなかった。ただ自分が「一生懸命になれない性質」にもかかわらず、一生懸命にならざるを得なかった、それを続けていたからじゃないかと思う。興味のあることでさえ頑張れない自分が、興味のないことに必死だった。単純に言うと、無理をしていた。やる気が無いのに必死だった。原動力は恨みだった。それが悪い方へと進んだ。

もう、ある意味そこで死んでいる。「いろいろ試してみたけどうまくいきませんでした」これが僕の人生の結論だった。これ以上はもうどうしようもない。そう思って後の時間をただなんとなく生きている。今の生活というのは、勝敗の決まった試合のロスタイムみたいなもんで、あってもなくても同じ。ただ身体が死んでいないというだけ。僕の人生はもう既に終わっている。まさに廃人。まだ僅かにお金が残っているものの、そのうちホームレスにでもなるか、そしたら病気かなんかですぐに死ぬだろう。その日が本当に最後となる。ああ、自分は死ぬんだな。そんなことを日々常々実感している。僕の人生は、もうそれでいいんじゃないかと思う。ここ数年は40歳まで生きられないだろうなと思っていた。仮にどんな形であれ40歳を迎えることができたら、おめでとうと言いたい。

身を粉にして家族を支えたり、養っている人からすれば生ぬるいと思う。罪と罰に出てくるソーネチカのように、娼婦として稼いだお金で父や血のつながりのない母、兄弟たちの生活を支えている人だっているだろう。そんな生活は僕にはできない。