群れるのが苦手という話

持たない幸福論を読んでいて「一人寂しく孤独に陥らないことが大事」みたいなことが繰り返し書かれていた。何か共通の趣味や価値観、好きな物事を共有できる人同士で集まり、人やコミュニティ、ひいては世の中と関わり、孤独に陥らないようにした方がいい、一人だと寂しくて、尚且つこの世界で生きるには力不足といったような内容だったと思う。これ難しい。実に難しい。僕は群れるのが非常に苦手で、仲間とか友達とか呼ぶのもちょっとためらう。そんな意識持てない。せいぜい知り合い、知ってる人、知人が精一杯。人と密に関わることができない。

 

人に嫌われる

それがなんでかっていうと、はっきりとはわかっていない。おそらく心の底では望んでいないのだろう。人と距離を置きたいというのがどこかにあるのだろう。自分のそういった内に秘める拒絶、もしくは表に出ている拒絶が人を遠ざけているというのは多少あると思う。それ以上に、根本的に人を寄せ付けない部分というのもあると思う。それは僕の日常生活における態度であったり、言動、「何あいつ…」と言われても仕方がないような、ちょっと痛い人、例えば街角でホームレスを見て友達になりたいと思うかというと思わないような、そういう心境を他人に与える部分は大いにあるだろう。無関係の人に害を及ぼさない程度になるべくなりを潜めるようには心がけているものの、そういう部分というのはふとした拍子に垣間見え、それを目撃した人が嘔吐を催す。そういう自分の腐った一面が他人に忌避される要因になっている事は否定できない。それがどこから来ているのかというと、多分僕の性格の悪さ。

性格の悪さ

なんだろう、やはり無関心が問題なのだろうか。そもそも自分が人と距離を置きたいと思っている理由が関わりたくないということだから、その距離を詰めるなんて土台無理な話なのかもしれない。カナダにいた時もよく「もっと人と関わったほうがいいよ」と言われていたけれど僕は「知ってる」と答えるだけでやはり関わろうとはしなかった。何故そうまで関わることを拒絶するのか思い返してみると、めんどくさいというのはもちろんあるんだけど、人と関わることによって自分の思考であったりペースであったり、リズムが乱れるからだった。僕は他人をノイズとしか認識していないのかもしれない。どちらかというと刺激に敏感な方で、明るいと寝れなかったり少しの物音で目が覚めたり、よく地震が来ても起きなかった人の話があるけれど僕はだいたい来る前に目が覚める方で、あと音とかすごく苦手。大きい音でなくてもすごく驚く。声でかい人とかマジ苦手。そういった人であったり何か物事という刺激が自分の神経に干渉してくることをひどく嫌悪する性質が昔からあった。だから、人をそういう神経を逆なでするシグナルにしか見れないのかもしれない。これは果たして解決できるのだろうか。その答えが行であり、慣れなのかな。いまさら?自分しか見えておらず、他人に興味関心を抱いていないというのはわかるけれど、人は普通他人に興味を持つものなのか?

里の行

子供の頃、母親がよくオーラの泉を見ていた。彼女はそういうオカルト好きだったから、僕に対してよく「あんたは里の行が必要」みたいなことを言っていた。番組でよく出てくる言葉らしい。詳しくは知らないけれど、個人でやる修行ではなく人と助け合うための修行みたいなものだそうだ。人に慣れる修行。確かにそうかもしれないと当時から思ってはいたが、いまだにそれをどうやるのかもよくわからず、気も進まない。それは本当に必要なのだろうか?慣れないこと、苦手なことを無理に克服する必要はあるのだろうか?例えば、僕は委員会とか実行委員とか生徒会とか組合とかボランティア活動といった「みんなのために、みんなで、」みたいなのがすごく嫌いでそういうのに一切関わったことがないんだけど、そういうのが里の行だとしたら苦行以外の何物でもない。それは僕にとってアレルギー物質を頬張るようなものだ。ショック死しかねない。そんなことをやって、誰かの何かに興味を持てるとは到底思えない。より嫌悪感が増すだけではないだろうか?

多と個

どちらかと言うとまだ一対一や、2・3人の人とだったら会話もできる。「誰と、自分が」明解になっていればそこに関わることができる。そこにいる相手がはっきりしており、相手もはっきりと自分を認識しているような状況であれば、言葉をつなぐこともできる。けれどそれが5・6人、10数人となるとその場にいられなくなる。「自分である必要はない」「そもそも誰も耳を傾けない」「声を大にして意識を向けさせてまで聞かせたいこと、見せたいものなど何もない」かといって小さなコミュニティであればうまく馴染めたり維持できるのかというとそういうわけでもない。それも全く経験がない。やはり人数の問題ではないか。しかし、自分の中でひとつの物事や、特定の個人に対して過剰な興味を抱くことが稀にある。人数というのはそれを分散させ、マイルドに棘のない一定の距離を保つ役割を果たすのだろうか。そんな関係を人は欲しがるのか?

分かり合うということ

ただ、本にはこうも書かれていた。「人と人はやはり異なった存在であり、究極には分かり合うことなどできない。人と集うのはその中の一部分かり合える部分だけを紡ぎ、連帯していくことになる」みたいなこと。言葉は違うけれど僕の解釈はそこまで外れていないと思う。僕自身もやはり、分かり合うことなどできないというのは昔から思っていたことであり「わかる」という言葉を信じられた試しがなく、思わず「それ全然違うよ」とか「君がわかったのは君自身であってそれは僕ではない」といったことを今まで言い続けてきた。人は他人に自分を見出す事ができたとしても、それはやはり自分であり相手ではない。でもそういう幻想を紡いでいくことが、実は分かり合うということの本質なのかもしれない。僕はやはり人をわかったことがなく、人の中に自分をみつけたこともなかったように思う。似通っていたとしても、いつもどこかに違和感があった。それは自分の意識ではない別物なのだから当然だ。しかし、そこに割り切りが必要なのかもしれない。違和感を飛び越える割り切りではなく、違和感を内包した上で「それでもここまでは僕たち意見を通わせることができたんだぜ」という割り切り。それ以上を求めるなんて、贅沢過ぎる。十分ではないか。そしてそれ以上の誤解が生じてしまうと、誤解が明らかになった時の落差が激しい。究極には分かり合えないという前提を理解した上で心酔せず、はっきりと冷静に自分の内面に語りかける必要がある。突っ走らないこと、それも重要なのだろう。距離を置きすぎず、詰め過ぎない。この絶妙な間隔が人と関わるということだとしたら、難しすぎるね僕にとっては。アプローチするのも難しければ、ブレーキをかけるのだってやはり難しい。社交性ってなに?食えるの?

持たない幸福論 働きたくない、家族を作らない、お金に縛られない (幻冬舎文庫)

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