後悔は意味がないという話

それ以前に、振り返ってみると後悔するということ自体あまりないことに気づいた。人生においてやり直したいこととか、戻れるならいつに戻ってやっておきたいこととか、あまり思い浮かばない。当たり前だけど「人生にやり直しはきかない」と言う。それは言葉の通りであり、例え今「あの時こうしておけばよかった」などと思っても、当時はそう思えなかったから今がある。当時に戻ってやり直していると、もう今の自分は無い。また別の「あの時こうしておけばよかった」と思う自分がいるかもしれない。それはもう全く別の人生を歩んだ自分であり、後悔の対象も変わっている。もし後悔をやり直したとしても別の内容で「あの時こうしておけばよかった」と思うだけであり、それを無限に繰り返すことになる。いくらやり直したとこで間違いのない人生を歩むのは極めて困難だろう。

やって後悔、やらないで後悔

あの「やらない善よりやる偽善」みたいなこういう薄っぺらい言葉がすごく嫌いなんだけど、「やらないで後悔するよりやって後悔した方がいい」という言葉があるらしい。標語みたいだなこれ。ナンパ指南なんかに使えそうだ。「ヤらないで後悔するよりヤって後悔」後悔するならどっちも嫌だろ。むしろ後悔なんてするなよ、と思う。何度も言うけれど、やろうがやるまいが後悔することに意味はない。結果的に後悔するなら、やろうがやるまいが同じだ。

反省することは意味がある

反省することと後悔することは違う。その違いは簡単だけど、反省することは未来に向けられており、後悔することは過去に向けられている。過去は変えることができないけれど、過去を省みることにより、少なくとも今の行動を変えることはできる。それによって未来は変わるかもしれない。だから、反省はこの先を生きる上で意味があると言える。ただ後悔だけをすることに意味はない。まあ多分、それもわかっていて後悔するのだろう。後悔というのは何も理性で行うことではない。感情的な側面が強い。過去のあの日あの場所で、なぜ自分は、こうしたのか、そうしなかったのか、その選択ゆえにもたらされた結末が悲惨であればあるほど、後悔は募る。自責の念に堪えかねない。反省したその先の未来なんて、もはや残されていないかもしれない。そうなるとやはり後悔しかない。自分の判断ミスで多くのものを失った時、その後悔はずっと残り続けるだろう。その感情は「やらないで後悔するよりやって後悔した方がいい」なんていう言葉で処理できるわけがない。

過ぎ去ったことを忘れない

後悔することに意味はない。しかし、後悔することを否定しているわけではない。人は誰しも後悔することがある。その失敗が大きければ大きいほど、それはトラウマのように残り続けるかもしれない。たとえ意味がなくても、後悔するのをやめられない。それぐらい大きな後悔を「過去を反省して未来に昇華だ」なんて呑気に構えることはできない。それは同時に、今の自分を作った捨てがたい過去でもある。後悔を供養できれば一番いい。自分の後悔を、過去の辛い体験として安らかに語れる日が来たら、それが理想だ。人は知識からも経験からも学ぶことができる。それは何も良い経験に限らない。後悔するようなことからだって、ずっと自分を苛むトラウマからだって、生きていくには学びたくなくても学ばざるをえないことがある。後悔が多い人生というのは、それだけ多くのヒントを得ているはずだ。多くのことを学んできたのだろう。反省するという行為は、自らが歩んできた人生と向き合う行為に他ならない。彼らにとって、いつか自分を許せる日が来ることを祈る。

後悔のない人生

自分の場合、いつからか後悔することがなくなった。その代わり何事も諦めるようになった。自分の人生に転機はいくつあっただろう。例えば小学生の時の習い事をずっと続けていれば良かったと思うけれど、受験があったから続けるという選択はなかった。仮に受験しなければ自分の人生はそれこそもっと大きく変わっていただろう。

高校受験で志望校に入れるようにもっと勉強すればよかった、そんな簡単な答えはあるけれど、もっと勉強したという選択はありえない。やる気も目的意識もなく、仮に志望校へ受かっていたからといってそれがどうなっていたかも知れたものではない。過去なんてそんなものだ。

例えば、もっと早くに文転していればもっといい大学へ行けたかもしれない。僕は高3まで理系で文系の勉強をせずに簡単な大学に入ったから、受験勉強をしていればもうちょっとマシな大学に入れたかもしれない。でもそれに何か意味があるかというと、あまり思いつかない。大学生活は多少変わったかもしれない。その程度だ。

内定先の候補は2つあった。もう一つの方を選んでいれば、今頃仕事を辞めていなかったかもしれない。そればかりは未知すぎて比較にならない。これも考えたところで意味がない。後悔とはとても呼べない。続けていればよかったとか、辞めたから悪いとも今のところは思えない。どちらにしてもそれはそれで自分の人生だと思う。

受験や資格に限らずその他あらゆる分野において、もっと頭が良かったら、才能があったら、と思うことはあっても、もっと努力しておけばよかったと思うことはない。僕は自分の意識の低さを自覚しているゆえに、もっと努力している自分というのが想像つかない。それはもはや自分ではない。今の自分の過去にそういった自分は存在しない。仮に何かのきっかけがあり、努力に励んだり取り組んだりする事があったとしたら、その先の自分というのはもう別の道を歩んでいるのではないだろうか。それもやはり、もう自分ではない。今の自分とは別人であり、今の自分から彼を想像することもできない。

どうも、今の自分はあるべくしてこうなっているように思える。過去の選択によって自分の人生が変わったとはとても思えない。もしかしたら人との出会いや事件、事故、病気などで大きく変わっていたかもしれない。それは自分でどうこうできる話ではない。手に負える範囲を超えている。

自分の場合は結局その程度で、後悔するタイミングがあるほどの大した人生を送っていない。あの時呼び止めておけば誰かを死なせずにすんだとか、あの時気持ちを告げていれば今頃後悔していなかったなどというような劇的なことは何一つとしてない。後悔のある人生というのはもしかすると苦難に満ちたものかもしれないけれど、僕から見ればしっかりと生きた証が残っているように見える。そして、その苦難に満ちた人生が決して羨ましいとは思わない。