パリのテロから思ったこと

パリのテロについて報道を見たり意見を読んだりして考えたことを書き残す。僕は国際情勢や歴史、宗教、法律、戦争、その他どの分野においても専門家ではなく、専門的な知識は一切持ち合わせていない。そんな人間が書いたことだからてきとうに聞き流して欲しいというよりは、もしそんな人間が書いたことであっても、いずれかの分野において知見のある人から専門的な意見や見識を頂くことができれば有り難いと思う。

 

テロとは直接関係ないけれど

今回のことを直接信仰と裏付けてよいのか、問題が複雑すぎてそれを単純化するというのは方向を見失う可能性が高いため、注意したい。そうは言いながらもISが信仰と切り離せる存在かというと、よくわからない。いわゆる多数派(多数派とはどの宗派までを指すのだろう)のイスラム教との区別はできたとしても、彼らISが信仰を基礎に成り立っている存在なのか、いわゆるイスラム教団体ではなくても、それはある種信仰の形をとったものではないか。信仰という表現はわかりやすさのために用いているため、そんなものは信仰でも何でもないという風に見て取れるかもしれない。であれば規範でもルールでもいい。ISにそういった共通の規範というものが存在しないのであれば、この話からISは省くことができるだろう。

規範と闘争

ここでISについて語りたいわけではない。人類の歴史というのは対立と征服の歴史、なんて言ってみるとやや在り来り過ぎるが、そういう文句をとりあえず冒頭に置くとして、少なくとも宗教にしろ民族にしろ、争いの連続というのは、ぞれぞれの集団が持つ独自の、グループが持つ共通の規範同士が互いにぶつかり合ったところから生じたものと言える。過去であれ現在であれ、弾圧、根絶やし、互いに認められない、相容れない相手の規範を葬り去ろうという意図から闘争は生じる。ではなぜそういった規範の衝突は起こるのだろう。それはもちろん、それぞれの規範が異なっているからだ。

規範の根源になるもの

規範が何故生まれるのかというと、それは連帯と生存のために生まれた。人が共同体を築くにあたっての根底となるルール、規範。それらは共同体を統率し運営するために必要となってくる。その延長上にあるのは、共同体を構成する人たちの生存だ。人は生き残るために共同体を築き、その共同体を運営するために規範を作る。規範がなければ共同体は機能しない。

そのように生まれた共同体、いくつかの共同体は当然ながら互いに異なった規範を持つ。お互い別のルールに則って運営されている。別の共同体の規範を否定するということは、そのままその共同体に所属する人々の生存を否定することに等しい。別の共同体の規範を認めるということは、相反する、相容れない自らの共同体を否定することに繋がり、さらに自らの生存を脅かすことに行き着く。もしくは自らの規範に取り込むという手段もある。改宗や征服がこれにあたる。規範の奪い合いというのは、まさに生存競争なのだ。

規範の枠組みを超えられるか

人類がそういった互いの規範を奪い合う闘争を繰り返し、ある程度社会が高度化するとそこに妥協点を見出した「共存」という可能性を模索するようになる。第一次世界大戦なんかでこっぴどく荒廃したヨーロッパ諸国は国際連盟なんてものを生み出した。国際連盟は、僕の記憶が正しければ世界で共通の規範を持ち「できればあんなひどい闘争はなるべく避ける方向に持っていこう」として生まれたものだった。この辺りは小学校で習った程度の認識しかない。この当時のいわゆる世界というのは、征服する国々。世界各国を征服して植民地だらけにした国同士が設けた妥協点だった。これは機能しなかった。そして第二次大戦が始まった。

多様性とは

先日読んだ記事から、多文化主義、多様性というものについて再び考えてみた。

2015年パリ同時多発テロ事件: 極東ブログ

「連帯」と「違いを受け入れること」|HYamaguchi|note

僕にとって多文化主義、多様性で思い起こされるのはやはりユーゴスラヴィアと、今年の春まで住んでいたカナダだ。ユーゴスラヴィアにおいては社会主義のもとに、カナダは移民国家である成り立ちとそのリベラルな国家体制において多文化主義、多様性というものを実現してきた。ユーゴは結局解体し、カナダ国内の現実は文化圏ごとに分かれている。それでもまだカナダは人種民族信仰の垣根を越えた交流がある方だと思った。これは同じ国内で、同じ土地と法律、カナダという同じ国の雰囲気を共有してこそ成り立っているものだと感じた。同時にカナダの歴史が浅く、カナディアンアイデンティティを持たず、尚且つリベラルな国家だからこそ成り立つのではないだろうか。これを世界規模でやるのは無理がある。共産主義はひとまず置いとくとして、多文化主義、多様性というのは単にリベラルの思想ではないか。

リベラルという一つの規範

「世界中にあるあらゆる文化、多様性を認める」という思想はリベラルの思想の元でしか成し得ないのではないだろうか。「世界中にあるあらゆる文化、多様性を認める」と言うといかにもそれが正義であり正解であり「世の中そうあるべき」という風に見えがちだが、それもまた「リベラル」という一つの規範に過ぎない。その規範を選んだ移民たちがカナダ国内において、その規範内で自らの文化を守るというのは、リベラルに内包された文化でしかない。その大枠の規範を越えることはできない。カナダ国内であれば、移民たちはそれを自ら選んでいるのだからそれでいい。問題は「世界中にあるあらゆる文化、多様性を認める」というリベラルの思想をカナダと同様に世界に広げようとすることにある。世界には何千年も固く守られてきた伝統や鉄の掟や保守的な思想がいくらでもある。それらは決して「世界中にあるあらゆる文化、多様性を認める」というリベラルの思想を受け入れないだろう。日本でさえほとんど受け入れられていない。「俺らも認めているんだからお前らも認めろ」という一見正義に見えるリベラルの押し付け行為は、最初のほうで述べた規範による規範の征服の一つだ。また闘争が生じる。

争いを避けるには

では、闘争はいかにして避けることができるだろうか。互いに規範が違う者同士、相容れない者同士の闘争というのは果たして本当に避けられないのだろうか。国際連合やNGOといった、国際的な規範の元の活動というのもなかなかうまくいっていない。

闘争を避ける、すなわち規範と規範のぶつかり合いにおいて、互いの思想を押し付けたり争うのではなく、妥協点を見つけ共存を図るにはどうすればいいか。それを根本的に辿ってみると、規範同士がぶつかるのは、それが生存競争だからということになる。食うか食われるか。それをせずに、お互い妥協できる点で争いを収めるには、規範と規範のぶつかり合いが生存競争にならないようにすればいい。まず一つは、やはり経済になる。規範と規範の対立が生き残りをかけた戦いなのであれば、争わずとも生き残れる道を示すしかない。生き残るということはつまり、現状が維持できるということになる。食料、金銭に余裕があれば世の中の争いはどれほど減ることだろう。貧困が連帯を生み、争いを生むとさえ言えるのではないだろうか。経済で妥協を見出すなんて一言が簡単ではないことはわかっている。IMFが何をしているのか詳しくは知らないけれど、多くの国際機関が国の垣根を越えて経済による妥協点の見出しをやろうと手を尽くしているのが現状だろう。

知的水準の向上は図れるのか

もう一つ必要になってくるのは、議論だろう。議論のテーブルを設けること、互いが互いの意見を主張し、妥協点を見つけるまで議論を深める必要がある。議論をするために必要なのは、相手と同程度の知的水準だろう。言語能力もあるに越したことはない。そしてその水準で規範を同じくする集団が統率され、連帯する必要がある。共同体内での教育が欠かせない。いつの時代も「問題の根幹は教育にある」と言われるような気がする。しかしここにはさらに大きな問題がある。何をどう教育するのか。何が正しいのか、誰がそれを決めるのか、どの水準まで上げるのか、こぼれた者はどうなるのかという問題。フィンランドの教育がいいとか言われたりするが、いくら教育制度を改革したところで、おそらく一定の割合でそこからこぼれる者は出てくるだろう。知能のばらつき、限界というのがどうしても人には存在する。彼らは見殺しになるのか、もしくは数に数えないのか。僕自身教育行政に詳しいわけでもなく、教育教育と叫んだところで問題の本質が解決するとはとても思えない。福沢諭吉が1万円札になったのは学問のすすめに書かれたいたようなことが、明治日本における国民の知的水準向上を促す本だったからだとか。学問のすすめとは、欧米列強と国際社会で渡り合うために議論のテーブルに座り、議論を交わすために学問を志そうという話だったと別の本で読んだことがある。全ての国や地域、時代でなかなかそううまくはいかないだろう。

学問のすすめ

学問のすすめ

 

根本的な、具体的な答えというのは何も出てこない。違う規範を持つ集団同士がお互いを理解し合えなくとも、反発し合いながらでも、争いや規範の押し付け合いを避け、しぶしぶながらでも妥協点を見いだせるような環境が整えばいいなと思う。

余談

最近中国の一人っ子政策が完全になくなったとかそういうニュースがあった。もし中国なり人口爆発の著しい国が人口を抑制したいのであれば、まず教育を充実させればいいのではないだろうか。もちろん簡単なことでないし、一人っ子政策みたいなことをやってしまう方がものすごく簡単だろう。でも教育の充実は将来的には人口問題の緩和のみならず、国力の充実にもつながり、極端な高齢化などに悩まされることもなく質の悪い労働に国民を追いやる必要もなく、想定以上の効果が得られるのではないかなんて思ったりもした。

そんな人海大国中国は国際社会において重要な地位を占めていたり、もっと根源的な話をすると世界人口における教育の乏しい人たちの繁殖力、人口比率なんかを考えれば、生物として、種として成功しているのは出生率の低下が危ぶまれる日本人や一人あたりのGDPが高くとも人口の少ない北欧諸国なんかではなく、数を増やした彼らの方ではないか。乳児死亡率の差があったとしても、彼らの方が確実に人口を増やしている。人類が築き上げてきた叡智というのは、生物として初めから備わっている本能という名の機能に及ばないのではないか、そんなことも思った。