あれほどまでに熱中していたゲーム

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戸惑いながらもコンビニでファイナルファンタジー7を買ったあの頃 - ITmedia PC USER

これを読んで当時のことを思い出した。当時僕は小学生だったか、テレビゲームにのめり込んでいた。僕だけではなく周りの同級生もそうだった。ゲームをやらない人もいただろうけど、僕の周りにはいなかった。当時あの状況でゲームをやらなかった子供は、肩身が狭かっただろうな。街中にはゲームショップが軒を連ね、家の近所だけでも5つあった。もう全部潰れた。週刊ファミ通やゲーム雑誌を毎週か少なくとも毎月購入していた。ゲームソフトも頻繁に買っていた。

初めて買ってもらったゲーム機はゲームボーイで、その後スーパーファミコンを買ってもらい、プレイステーションに至る。セガサターンはだいぶ後になってから買ったものの、あまりやらなかった。PS2は高かったら、2万円を切ってから買ったような気がする。大学生のときによくやったのは覚えているけれど、あまりのめり込んではいなかった。ゲームを一番やっていたのは、結局小学校の6年間だった。ゲーム以外の子供の遊びは、エアガンとかミニ四駆とかプラモデルとかマンガとかもあったけれど、ゲームが言わば遊びの王様だった。何故僕たちはあれほどまでにゲームにのめり込んだのだろう。

FF7の時代、1997年

冒頭に貼った記事にはFF7のことが書かれていた。FF7あたりがゲームにのめり込んだ最後だったように思う。それ以降はFF11を朝まで何日もやっていたことはあったけれど、ただ一人でやっていただけで熱狂しているという感じではなかった。FF7に至っては周りの友達もみんなやっていたし、雑誌を買ったり攻略本を買ったり、とにかく発売の前後1ヶ月は周囲の誰もがFF7の話題しかしていなかった。異常だったと思う。もはや流行だったし、ムーブメントに近かった。もっと遡ればドラクエ3あたりが社会現象と呼ばれた。

誰が早くクリアするかの競争だった。僕はFF7を買ったら学校を休んでやっていた。親に黙っていたわけではなく、仮病だったか本当に病気になったか忘れたけれど、家で黙々と進めていた。さすがに何日も休んだりはしていない。FF7は事前に体験版が配布されたり、テレビCMも頻繁に流れ、発売前から既に盛り上がっていた。当時スーパーファミコン以降の次世代ゲーム機としてプレイステーションとセガサターンがしのぎを削っていた。任天堂は後に64を発売したが完全に出遅れた。次世代ゲーム機抗争は、スーパーファミコン時代から人気の高かったドラクエやFFといったタイトルが、どのハードで発売されるかで雌雄を決すると言われていた。結局ソニーがトップに立った。その決め手となったのがFF7だった。

2015年にリメイク版のトレーラーが発表された

FF7には驚かされることがたくさんあった。FF6まではドット絵だったから、映像が突然進化したことに驚いた。ポリゴンのレースゲームや格闘ゲームは既にあったが、RPGで見たのはFF7が初めてだった。オープニングは映画のシーンのようであり、街や建物、風景は写真のように鮮明だった。CD3枚組なのも驚いた。これまでのシリーズはRPGで王道のファンタジー色が強かったのに、現代的な設定になっているのも驚いた。蜜蜂の館がどう見ても風俗店で驚いた(当時は風俗店の存在も知らなかったが)。子供だったからネタバレも嘘も横行しつつ、学校中がFF7の話題で持ちきりだった。少なくとも僕の観測範囲ではそうだった。テレビも雑誌も。

クリアする人が現れると、今度はスノーボードのゲームに熱中した。ゲーム内にあるゴールドソーサーというカジノで遊べるゲームだ。仲間内でも競っていたが、ファミ通で紹介されているタイムが尋常じゃなくてとても追いつけなかった。FF7はそういったゲーム本筋以外の遊び要素がたくさん盛り込まれていたことも、今までのシリーズに無いことだった。FF7は熱かった。輝いていた。シリーズの中でもいまだに人気が高く、後にアドベントチルドレンのような続編が作られた。FFの映画が大コケして坂口ヒゲ信が失脚してしまったけれど、初めからアドベントチルドレンを作ればよかったのにと思う。

ゲームが熱かった時代

FF6の発売日には店頭に並んだ。ちょうど休日だった。ゲームショップは開店前から列を作り、開店後も1時間待つことになった。僕は初日入荷分の予約をしていたが、同級生と一緒に朝早くから並んでいた。並ぶわずらわしさも感じず、ゲームに対する期待と、その波に乗っている楽しさを感じていた。

かまいたちの夜も流行った。買った次の日には友達に犯人をネタバレされ、それでもどうやって進めていけばクリアできるのかわからなかった。「サバイバルゲーム」でゲームオーバーになる。実際小学生には難しかったが、クリアした友達にヒントを教えてもらいながら進めていた。ペンション「シュプール」のモデルになった、ペンション「クヌルプ」というのが長野県白馬に実在するとガイドブックに書かれており、かまいたちの夜ごっこをしたいなどと話し合った。「ピンクのしおり」がエロいという噂だったが、ピンクのしおりにたどり着いた人は周りに一人もいなかった。

「かまいたちの夜」の世界に迷い込みました。 - 人生に疲れた男のblog

テレビゲームは当時、今で言う趣味の一つや、子供の遊びの一つといった、いくつもある選択肢の中の一つではなかった。誰もがその道を通っていた。アメリカのスポーツで言うところの野球やバスケットボールではなく、アメフトだった。競技人口が多く、観戦人口も多かった。何年も続いたお祭りだった。そう、ホビーの一つではなく、一種のお祭りなのだ。バブルである。そこで繰り広げられたのは趣味への没頭ではなく、お祭り騒ぎ、祭りの雰囲気を皆で味わう一体感だった。今から考えると、徒歩圏にゲームショップが5軒あったり日本中のコンビニにゲームソフト用のラックが置かれたり、ゲームセンター行けば誰か知っている人が必ずいたり、ゲーム雑誌が山ほどあって攻略本や裏技の本を買い漁っていたのは異常だった。

ゲームをやらなくなった

中学から高校にかけてゲームをやらなくなった。何よりもゲームを一緒にやる友達がいなくなった。中学では部活動や受験勉強に明け暮れる人たちが増え、ゲーム人口が減った。高校に入ると音楽やファッションなどを媒介した人付き合いに流れて、ゲーム人口はクラスで数えるほどになった。あれほどまでに全員を魅了し、祭りのうずに巻き込んでいたゲームは、所詮子供の遊びだった。僕らはもう祭りの当事者にはなれなかった。歳を重ねてもゲームをやり続けているのは愛好家だけだった。

僕自身は高校からネットにのめり込んでゲームをやらなくなった。パソコンのゲームは少しやっていたが、熱狂するようなものではなかった。大学生のときにやっていたゲームは暇つぶしで、小学生の時に出来なかったゲームの積み残しだった。誰かと話題を共有するようなものではなく、やっぱり一人でやっていた。ゲームとしてはおもしろかったが、あの頃に比べると物足りなかった。僕が小学生の頃に、ゲームとともに体感していたのはお祭り感だった。所詮流行に乗っかっていただけのニワカだったんだ。