一般人が個人で売る難しさ

お金がなくて困っている。働けって話なんだけど、働かないといけないなーと思いつつも、働きたくない思いでいっぱいだ。輪廻とは生きる苦しみの輪であり、仏教では輪廻から解脱することを目的としているが、僕は現世でお金の輪廻から逃れられずに苦しんでいる。お金がないと生活ができない。お金を稼いで、使って、という資本主義が生み出したお金の輪廻から逃れたいが、なかなかうまくいかない。

それはひとえに、自分が労働以外の形で経済的価値を生み出せないからだ。情報とかアイデアとか才能とか、なにか資産を投じることによって自分の生活圏ぐらいまかなえれば理想なんだけど、現実にそのようなことができる人は限られており、その限られた才能や徳を持ち合わせなかったり、めぐり合わせに上手く行き当たらなかったり、努力の使いみちを見いだせなければ労働するしかない。

かといってアフィリエイトに走ったり情報商材の手先になったり、サロンという名のもとに人をだまくらかしたりするのは生理的に受けつけない。信念にそぐわないというか、自分が良いと思うことしかできない。不器用を言い訳にしている。だったら普通に働くのと変わらないと思ってしまう。そもそも自分が会社を辞めたのは、そういう人を騙す商売と言うか、人間関係によって築かれた信用という名の良心につけこんで金を巻き上げる行為に嫌気がさしたからだった。たとえそうやって世の中が回っているとしても。

正直に生きたいと思っていた。自分に対しても周りに対しても、嘘をつきたくなかった。そういうのって結局十代の頃の夢みたいなものを捨てきれないでいる気持ちと同じなのかなーって思う。綺麗事ではやっていけない。生きるとはつまり、生き残ることであって、他人を蹴落として生き延びることだ。弱者を蹴落とす心の強さがなければ、強者から分け与えてもらうしかない。そのためには、余裕のある強者が生活の糧を分け与えてくれるだけの、見返りを提供しなければいけない。それがコンテンツとなる。

しかし、余裕のある強者が見返りとして生活の糧を分け与えてくれるほどのコンテンツを、弱者が提供できるだろうか。専門分野に特化していればできるかもしれない。徳があれば重宝されるかもしれない。そういうものを自分が持ち得ているかというと、思い当たらない。試す以前に、中身がすっからかんだ。提供できるコンテンツがない。自分という人間はありきたりで、中途半端で、資産価値はゼロだ。コンテンツどころか労働すら危ぶまれる。

通常であれば、資本や時間を投じて資産価値を身に着けなければならない。労働するにあたっても、コンテンツを築くにあたっても、世の中で求められていることと自分ができることを照らし合わせ、重なる部分を組み上げていくことで、自分の価値は高まる。そこで問題になってくるのは、自分の気持ちだ。つまり「やりたいこと」「やりたくないこと」。

多くの人がそうであるように、自分には「やりたいこと」がない。そして「やりたくないこと」はくさるほどある。ほとんどがそうだ。興味持ったことを「やりたいこと」として掲げても、その過程には無数の「やりたくないこと」が待ち構えている。自分にはその「興味を持った」程度のことよりも「やりたくないこと」のやりたくない度のほうが比重が高い。だから「やりたいこと」に繋がるような多くのことが、結局は「やりたくないこと」に転化されてしまう。

強者であれば「我慢すればいい」と思うだろう。「やりたいこと」に到達するまでひたすら「やりたくないこと」を無心に我慢し続け、たどりついたときの喜びを感じれば次の「やりたくないこと」も我慢できると。しかしそれができるのは、強者だからだ。途中で力尽きてしまうね。「やりたくないこと」を行う過程で、何らかの喜びを見い出せばいいとも思うだろう。え、それどうやるんすか。マジないんですけど。何かに夢中で取り組める人がただただうらやましい。

行き着く先は、結局生きるために働くことだ。「やりたいこと」もクソもない。「やりたくないこと」であろうが関係ない。家賃を払わなければならない、飯を食わなければならない、生きていかなければならない。ただそのためだけに身を粉にして働く。残業、休日出勤は当たり前、愛想を振りまいてお世辞を言い、笑いを取り、何を言われてもハイと答え、他人の失敗をかぶり、理不尽も受け入れ、怒られてもめげず、ときには嘘もつき、ときには人を出し抜き、クソおもしろくもないことをひたすらこなす。ただ生きるため、ただ生きるため、ただ生きるため。

そういうのに耐えられるのも一つの強者の形だ。ヤリガイを見いだすのも、物事を楽しむ才能と言える。家族を持ったりするのも同じ。稼いだお金を消費することで喜びを得られるのだったら、それさえも僕にとっては才能に見える。僕にはそういうことが全部、なにひとつなかった。持たざる者。自分は何もできない。なにか才能があったら、と思う。もっと頭がよかったら、と思う。もっと我慢できたら、と思う。もっと運がよかったら、と思う。もっと頭が悪かったら、と思う。大富豪や石油王のもとに生まれていたら、とは思わない。

世の中で話題になっていることについていけない。情報は得ても、何がいいのか理解できない。持て囃されていることに乗っかれない。興味を持たれていることに関心が持てない。マスとのズレを感じる。人の気持ちなんてわからない。でもおそらく、強者であれば自分がおもしろくないと思っていることでも、ウケるなら乗っかる。ずる賢い人がうらやましい。ずる賢いという言葉はけなす言葉ではない。生き残るという生物の掟においては、紛れもなく強者が持ち得る美徳だ。人間が大人になるということは、そういう生きる強さを備えることを指す。古来では、大人になる儀式をくぐり抜けられなかった人は死んでいく。自分は本来、そこで死んでいた人間だろう。