恐怖心を克服するということ

起業家セミナーというのがあって、参加者は全員が自分の起業プランを話さなければいけないという場だった。その内容を聞いて無職の自分がとてもじゃないけど参加しようとは思わなかったが、ふと自分ならそういった場で何を話すだろうかと考えてみた。でも起業とは全く縁がない。だから全然別の話を思いついた。

カナダに見た理想郷

自分がこの先、世の中に思い描くのは、ボーダーレスな社会だ。カナダに1年半いて、それがある程度実現している夢の世界を垣間見、日本に帰ってきて「日本もこうなればいいのに」と思った。カナダは移民の国だから外国人であることを全く意識しなくていい。そもそもカナダ人からして「カナダ人って何?」と言うぐらいナショナル・アイデンティティを持っていない(ケベックに行けばフランス系移民ばかりで、フランス系アイデンティティを持っているようだが)。

カナダで一番人気のあるスポーツはホッケーだが、みんながみんなホッケー好きというわけでもない。アメリカンフットボールみたいに全米で盛り上がっている感じは見られない。スキーやボードが好きな人もいれば、野球の大リーグチームもある。街なかにはいたるところにスケート(ボード)やBMX用の公園があり、バスケットゴールもある。ヨーロッパやブラジルからの移民はサッカーで盛り上がっている。

スポーツに限らずフィギュアショップやカードゲーム、ボードゲームカフェが堂々と店を構えていたりする。好き嫌いはあれどそれは本人の問題で、周りには関係ない。個人主義であり、多文化主義であり、誰が何をやっていても白い目で見たりせず、互いを認め合い、それぞれ好きなことをやりたいようにやっている。他人の顔色を伺うなんていうことがない。伺う必要性すらない。

カナダ人は優しいと言われる。それは仲間だから優しいとか、身内だから優しいというわけではない。誰に対してでもフレンドリーで排他的ではない。その優しさの根源は、他者の集合体であるカナダが、お互いの差異を認めあうことで成り立っているからではないかと感じた。

他者と自分を隔てるもの

日本もそうなればいいと思った。日本に限らず世界中がそうなればいいと。では、なぜ私たちが他者に優しくできないのか。この場合の他者とは、自分と文化、価値観を違える者、その集団を指す。日本人は他者に優しくできないだろうか。外国人との間に壁があるだろうか。言葉の壁ではなく、何か異物としての壁を感じる。個性の違いはもちろんあり、宗教や文化の違いがある。なぜ互いにそれを認め合えないのだろうか。

それはおそらく、恐怖心から来るものだと思う。違うものに対する恐怖。わからないものに対する恐怖。どこかでわかるはずだろう、理解できるはずだろう、と思っていれば、そこから外れた瞬間に恐怖が生じる。幽霊や怪物はおそらく、その原理がわかってしまえば怖くない。対策がとれたら怖くない。わからないのが当たり前、という前提に立てないことから来る恐怖。しかしそれらわからないものを恐怖することは自然なことだ。恐怖心は動物が生命を守るために欠かせないものである。恐怖心そのものが問題だとは思わない。問題は、恐怖心を克服できないことだろう。

韓国人、イスラム系住民、黒人、ゲイに対しての差別意識は、元々は自分と習慣や価値観を異にするもの、わからない存在としての恐怖心から来ているのではないかと思う。それでは恐怖心を克服するとは一体どういうことか。それは「恐れないこと」ではない。「わからないもの」を理解することでもない。恐怖心を自分の管理下に置くこと。互いに分かり合えない者同士であるということを認識するところから始まる。

恐怖心と向き合う方法

恐怖心を管理するということは、恐怖心そのものを無くすのではなく、恐怖心にとらわれないということだ。「わからないから怖い」で終わらない。その先を考える。恐怖心の前に壁を立てるのではなく、壁を築かないようにコントロールすることで恐怖心を克服していく。

例えば、初めて一人で海外旅行をするとしたら、ありとあらゆる恐怖心を抱くだろう。うまく渡航ができるだろうか、言葉が通じなくて大丈夫だろうか、危険な目に合わないだろうか、道に迷わないだろうか、騙されないだろうか、そういった恐怖心が膨らみ、シャットアウトしたくて旅行そのものを断念することもあると思う。しかし同時に、これらの恐怖心は簡単に克服することができる。

一つは経験。一度経験して慣れてしまい、平気だということを実感すれば恐怖心は和らぐ。一人海外旅行も、一度行ってしまえば何とも思わなくなる。このような形で警戒心を解いてしまうのは危険なことでもあるんだけど、恐怖心を克服する上で一般的な手段だ。そして、もう一つが知識の応用である。

知識を応用すれば、自ら経験しなくとも恐怖心を克服することができる。知識とは理屈と他者の経験だ。原理原則や価値観、文化を理解や共感はできなくとも、知ることはできる。うまく渡航するためには、渡航するまでのルート、時間、遅れた場合の対処法、着いた先のマップ、税関での質問内容など、あらかじめ把握してればその点に関しての恐怖、「わからないから怖い」はなくなる。用意していた知識と実物が違えばどうすればいいだろう。そこまで想定して準備する。起こりうることを予想する。そのときに抱くであろう恐怖心を前もって把握する。そして知識を得ることにより対処法を心得る。そうなればもう何も怖くない。怖さが残ったとしても、管理下に置くことができる。例えばそれが、自分の力量で対処できないような物事であれば、いかにして躱すか、やり過ごすかを調べればいい。それで全て対応できるわけではないが、恐怖心を克服するということはそういうことだと思う。

ボーダレスな制度

さて、これで恐怖心の壁が突破できた。これはつまり、自分にとって壁のない世界が一つ広がったことになる。今までずっと日本で生きてきて、海外などツアー旅行しかししたことがなかった人は、一人でいつでも海外旅行ができるようになった。イスラム教徒についての知識を得た人は、イスラム教徒に対する偏見がなくなって友だちになりやすくなっただろう。壁がなくなるということは、一方的ではなく互いに行き来できるということだ。壁をなくすために必要なのは、経験か知識。いや、もう一つある。カナダのような"仕組み"だ。

仕組みで壁を取っ払うとはどういうことか。それは移民制度だったり法律だったり社会保障だったりする。教育がタダだったり医療がタダだったり、手厚い福祉で仕事がなくとも安心だったり、カナダの仕組みは生活する上での恐怖心が解消されるようにできている。生活が保証されていれば、犯罪に走らなくても済む。制度上、もともと他者を怖がる必要などない仕組みになっている。

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制度がなくとも実現する

歴史も成り立ちも制度も違う日本で、カナダ人のように振る舞うことは難しいだろうか。カナダのように制度で守られていなければ、自然にそうなることはまずありえない。制度が改革されたら一番いいんだけど、今のところ日本政府には望めそうにない。世界は恐怖と偏見の壁に囲まれたままなのだろうか。

そうではなく、前述したとおり制度がなくとも経験や知識で壁を取っ払うことができる。僕はカナダに住んだおかげで対外国人の壁はかなり低くなった。経験だけでなく得た知識によっても恐怖心なんてものは大体克服できたように思う。ただ経験も知識も万能ではないから、鵜呑みにしてはいけないし日々更新と改定が必要になってくる。その点については制度も同じ。

そうやって各々が壁をなくしていけば、同化するのではなく境界を行き来できるボーダレスな社会になるんじゃないかと思う。そして自分ではなく、他者の壁をなくさせるには、他者に対して知識や経験を提供していくしかない。