「ジョーカー」は狂っていないぞ。ネタバレ・感想・評価

ジョーカーを見てきて、思うことはいっぱいあった。いろんな事件を思い出した。秋葉原通り魔事件京アニ事件、いじめで子供が自殺した多数の事件、具体的な事情は全然違うけれど、なんだかそういうできごとを全部乗せしたのが今回見た映画、ジョーカーの話だったように思う。

あらすじ

主人公アーサーは中年男性。ボロアパートで母親と同居しており、ボケてきている母親の面倒を一人でみている。仕事はピエロの格好をして店や病院などで営業をする道化師。サーカス団のようなところが事務所となっている。アーサーはずっとコメディアンを目指しており、母親と一緒にお気に入りのトークショー番組を欠かさず見る。いつの日か自分がその番組に出られることを夢見ながら、スタンドアップコメディの舞台を見に行ったりして勉強している。

アーサーは心の病で入院していた。今でも福祉のカウンセリングに通っており、薬を処方されている。ストレスを感じると「笑いが止まらない」という病気、障害のようなものを抱えており、市井の人々からはいつも気味悪いものを見る目で見られる。コミュニケーションのとりようがない。アーサーはピエロのパフォーマンスなどは一通りできるものの、舞台に立つようなコメディのセンスがない。どうすれば人が笑うのかがわからない。才能がない。

そんなアーサーに、日常として、当たり前にように立て続けに悪いことが起こる話。

ネタバレありの感想

「不幸な人に、立て続けに悪いことが起こる話」っていうのは予告を見るだけでも明らかなんだけど、「まだ続くの?」っていうぐらい悪いことが続く。それはありふれた、重々しいできごとで、一つ抱えるだけで生きることが困難になる。例えば、仕事をクビになる、母親が脳卒中になる、出生の秘密が明らかになる、など、そういった自分の一生に関わる悪い出来事があれこれ立て続けに起こり、当然のごとくアーサーは追い詰められる。こういう姿、ここまで重なることはないにしても、こういう追い詰められる人の姿は、日本でもそこら中にあふれている。貧困、病気、介護、解雇、社会不安、世の中はよくならない。自ら人に歩み寄ろうとしても、人は自分を避けていく。ギリギリの生活。全部が引き金になりうる。

これが見ていてなかなかしんどい。僕はこちら側だったと感じる。つらい側、虐げられる側、気味悪がられる側。この映画の感想について、よく狂気だとか言われている。優しかったアーサーに不幸が重なることで、次第に狂っていくとか。でも僕自身はアーサーは決して狂っていないと思うし、病気のそれを言うなら元から狂っていたことになるし、破壊と暴力に走るのは狂気に駆られたからではなく、必然、当然の帰結。ただ怒りが噴出したか、もしくは吹っ切れただけと言える。正当な反抗を狂気だなんてとらえられたら、こっちとしたらたまったもんじゃない。一緒に見に行っていた人の一人が「アーサーはかわいそうだけど、あんな人が近くにいたら嫌だ」と言っていて、あちら側の人にはそう見るんだろうなと思った。おそらく、映画館に見に来ていたカップルの大半もあちら側。今この映画館にいる自分だけが、アーサー側にいると思わせられる。

しかしこの映画が鬱映画かというと決してそうではない。ジョーカーはちゃんと爆発するからだ。その爆発っぷりがなんともすがすがしくて、タメとして作用するどん底への落ち込みも予想以上だったし、そこから吹っ切れたあとの爽快感も予想以上だった。予告だけで「こんな程度かな」と思っていたのが見事に裏切られて喜ばしい。見ていて実に楽しい映画だ。内容のディテールについてもあらゆる解釈が飛び交っており、議論の的になる映画でもあった。もう1回見たい。

ついでに言うと、僕はバットマンのファンではなく、ダークナイトは初回しか見ていない。最近のDCユニバースモノ?であるバットマンvsスーパーマンとかも見ていない。ジャスティス・リーグだけ見てわけわからなかった。そういったアメコミ文脈でジョーカーを期待していると、がっかりするかもしれない。特にダークナイト好きには今回のジョーカーが評判悪い。映画館の客層もおそらくアメコミ映画ファンが多かったのだろう。