自分がない人

ときどき「川添さんは自分を持っているから〜」などと言われることがあって、自分を持っているってなんだ?と思う。いわゆる「自分を持っている」という言葉の意味として、自分の意見があるとか、自分の主義主張があるとか、自分なりのやり方があるとかそういうことなのは理解できる。「他人の意見に流されない人」とかそういう意味で言っているのだろう。

「自分の信念を持って行動する人」って言い方をするとなんか持ち上げられているような気もするが、「融通の効かない人」とか「人の意見を聞かない人」といったとらえ方もある。自分を持っていることが、一概に良いことだとは言えない。

じゃあ「自分を持っていない人」とはどんな人なのか。自分を持っていないとは、人の意見に流されやすく、自分の意見が乏しい人、ということになる。もしくは自分の意見があったとしても、裏付けに乏しく、コロコロ変わる人とか。確固たる思想体系がなく、首尾一貫していない人が、自分を持っていない人にあたるのかもしれない。良く言えば臨機応変。こだわらない人ってことになるのか。

僕自身はこだわらない人間であろうと努力しているつもりなんだけど、それが既にこだわっていることになるのかな。臨機応変は確かに苦手だ。柔軟性もなく、頭は固い。でも自分では影響受けやすい人間だと思っている。影響を受ける分野や方向性が限られているのかな。だったらやはり融通が効かないのか。

知り合いの「いいねいいねそれ採用」とよく言ってる人は、同時にこだわりも強い人であるように見えて、臨機応変かつ自分を持っていると言える。真逆のことを採用したりはしていないってことなのかな。意見を変えつつも、根拠がしっかりしていれば「自分がある」と言えるのかもしれない。

僕が個人的に思う、「自分を持っていない人」とは、自分が何を良しとするか、何が好きで嫌いなのか、自分はどうしたいのか、しっかり把握できていない人のことだと思う。自分のことは自分でわかっているはずなんだけど、整理が行き届いていないから、ときどき自分とは違う意見を取り込んだり、迎合したりすることもある。

自分の意志や好みがあるにはあるんだけど、それをクリアにしてこなかった、つまり、自分に向き合ってこなかったことが、「自分がない」と評価を受ける理由なのだろう。

そういう話を奥さんにしていたら「自分に向き合えない人も多い」という答えが返ってきた。「自分に向き合わないことで自我を保っている」という意味だそうだ。例えば、自己矛盾に向き合ったり、なぜ自分がそうなっているのか核心に触れてしまうと深く傷つくから、防衛的にあえて自分に向き合わないようにしているとか。

「自分がない」とは、言い換えれば「他人がある」ということだ。自分よりも他人を優先して、他人のために尽くせるんだったら、それは素晴らしいことなんじゃないか。

「自分って何だ」というよりは「自分はどう思うのか」なのだろう。子供の頃、先生や大人に怒られたときによく「自分はどう思うの?」と聞かれた。例えば、誰かとケンカして泣かせてしまったときとか、悪いことをしたときに反省の色を伺うために「君は今どう思っているのか?」というような質問をされる。

ここで正直に「うるせえなと思う」などと答えると、反省の色なしと判断されて余計に怒られてしまう。でもここで本当に「自分はどう思うのか」を答えられる人は「自分がある」人だ。もしくは、めんどくさいから反省しているフリをして「悪いと思っている」と答える人もちゃんと自分がある。本当に悪いと思っている人は、そもそも「君は今どう思っているのか?」なんて聞かれない。既に反省の色が出ているからだ。

じゃあ自分がない人はどう答えるのか。もちろん「悪いと思っている」と答える。同じ「悪いと思っている」と答えた、「めんどくさいから反省しているフリをしている人」とは何が違うのか。それは、動機が違う。反省しているフリをしている人は、「めんどくさい」が動機だ。しかし、自分がない人が「悪いと思っている」と答える動機とはなんなのか。それは、訊ねた人へのご機嫌取りである。「他人がある」のだ。自分の意志よりも、他人のご機嫌が尊重され、選択され、採用されるから、結果的に「自分がない」人になる。

では彼らがなぜそんな選択をするのか。それは他人に気に入られたいからだろう。「自分」よりも「他人」に気に入られたいため、「自分」よりも「他人」の意見を優先する。結果、「自分」は「他人の意見」によって塗り固められた存在になり、「自分の意見」がないがしろにされる。なぜそんなに他人に気に入られたいのか、その他人とは一体誰なのかは知らない。

僕が「自分を持っている」などと言われるのは、人の評価に疎いからなのだろう。「自分がない」と言われる人は、いろんな人から好かれやすいんじゃないかな。