お彼岸って何の日?

お彼岸については何も知らない。彼岸があの世を指すこととか、春分秋分の日であるとか、その日に墓参りに行くことぐらい。彼岸花はこの季節に咲くのだろうか。この手のことを僕は人生で一度も気にかけたことがなかった。よってお彼岸の思い出もない。一度Wikipediaを覗いてみよう。

浄土思想でいう「極楽浄土」(阿弥陀如来が治める浄土の一種、西方浄土)は西方にあり、1年の内で2度、昼と夜との長さが同じになる春分と秋分は、太陽が真東から昇り、真西に沈むので、西方に沈む太陽を礼拝し、遙か彼方の極楽浄土に思いをはせたのが彼岸の始まりである。昼夜・東西が平行になるお彼岸の時期には、「あの世」へのゲートが開くといわれてきた。現在ではこのように仏教行事として説明される場合が多い。それがやがて、祖先供養の行事へと趣旨が変わって定着した。"

そうなのか。春分秋分の日だと真西に日が沈むから、真西にある極楽浄土へのゲートが開き、先祖の供養になると…?そしてWikipediaによればインドにも中国にも彼岸はなく、日本独自のものらしいです。つまり習慣ですね。806年に初めての彼岸会が行われたらしいです。

彼岸 - Wikipedia

僕は自分が仏教徒であるつもりはない。坊さんに親しみもない。また、仏教がもともと経典になかった先祖供養とどのように折り合いをつけて、こんにちに至っているのかも知らない。仏教は大衆に乞われてか、本来あるはずのなかった役割を担うようになったのだろう。

今後自分が葬式を挙げる際には、例に倣って仏式で挙げる。それは自分のためというより親戚のためにそうするだけで、自分は多分この先も「彼岸がどうの」と言うことはないだろう。これまで何もしてこなかったように、今後も何もしないと思う。僕の葬式についても、誰かが必要だと思ったら必要な形でやってくれたらいい。

行事や習慣は、人が必要だと思うから成り立つだけであって、例えば僕が不要だと思えば僕にとってはなくていい。感情をコントロールするために形式がある。自分がそういう形式を必要だと思う日は来るだろうか?形式は、人をまとめるために有効かもしれない。形式により、人同士の連帯と、協調が生まれる。

そういうのに頼らず、自分の感情をコントロールする手段や強さがあれば一番いいのだろうけど。