名残惜しい海外旅行ですね

最近かつての同居人が旅行していて、Instagramに写真が上がってくる。ハワイからアメリカ本土に入り、今メキシコにいるそうだ。正月はアメリカで迎えていた。

彼は40代で、金があるわけでも学があるわけでもない。同居していたのは10年ぐらい前。半年ぐらい同じ家に住んでいた。その後彼はイギリスで2年暮らし、日本に帰国後は帽子屋かなんかで働いていた。それから何やっていたのか全然知らなかったけれど、最近の動向がInstagramに上がってくるようになり、また渡航していることを知った。

彼はイギリスに行く前にも2年オーストラリアで、1年ニュージーランドで過ごしていた。そういう生活がやめられなかったのか何なのか、今具体的にはどうしているのか、なぜメキシコなのか、詳しくは知らない。ただその姿に、かつての自分を重ねる。

僕もよく旅行していた。彼の旅行とはまた種類が違うけれど、もう旅行をしていた日々が遠くなっている。旅行していた当時の日記も残っており、彼の姿を見るのと同様、当時の自分をうらやましく思う。かつての自分に戻れたら、とは思わないが、旅行はまたしたい。あの感覚を再び、とは思う。

2018年に、僕はアフリカのガーナにいた。「タウンの偉い人に会わせるから」と言われ、35℃の炎天下で待っていた。4時間も5時間も待たされた。挙げ句「今日は来ない」と言われた。カルチャーショックだった。時間、約束という概念が、彼らと僕とでは全然違った。また暗黙知があまりに多く、門外漢の自分には誰もルールを教えてくれなかった。明文化されているわけでもない。人によって解釈も異なる。異文化は文字に起こせないと思った。日本の文化だって、外国人が理解できるような文献、ルールブックは存在しないだろう。

なんかそういうのが、僕にとっての外国であり、旅行体験だった。通じているのかどうかわからない言葉。輪郭のはっきりしないローカルルール。そこにいることで感じる、圧倒的な異邦人感が不安で心地よかった。快適さなんて微塵もない。全てが冒険で、挑戦だった。

旅行は所詮レジャーだから、遊び感覚でそういう体験を楽しめるのがいい。移民、留学、就職となると遊び半分ではいられない、真剣なものとなる。そういうのは全然求めていなくて、頑張りが必要になるとただしんどいだけ、つらいだけ、苦しいだけになり楽しめない。頑張った成果なんて求めていない。その場限り楽しければそれでいい。

かつて机を並べた友人たちが、今イギリスやドイツの大学院に通っていることや、タイやカンボジアやモザンビークや東ティモールの企業で働いていることは、素直に応援したいし、ある意味うらやましい。でも僕が一番憧れるのは、何を頼りにしているのか、何の頼りもないのかわからない、冒頭に挙げた彼。人から見れば、ただよくわからない旅行をしているその姿。

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