話を聞いてほしい人ばかりじゃない

「聞き上手な人」がもてはやされる昨今、世の中には「自分の話をしたい」「私の話を聞いてほしい」という人がいかに多いか、ということが露顕されている。話したい人がたくさんいるから、聞き上手な人が重宝される。少し前までは驚異のプレゼンとかいって話し上手な人がチヤホヤされていたのに、今は聞き上手だ!いや本当は前から聞き上手が世の中に求められていた!などという世の潮流をビシバシ感じる。

いや、それって本当か?僕の体感としては、全然そうは思わない。聞き上手どうこう以前に、自分の話をしたい人ってそんなに多いか?誰も話したがっていないのに、今聞き上手が求められていると勘違いして、「どうした?話聞くよ?」なんて聞きに入るヤカラは痛い目見るんじゃないか。

実際に求められているのは「聞き上手な人」ではないと思う。そして「自分の話をしたい」人が多いわけでもない。

僕が思うに、というか僕自身もそうだけど、まず最初に相手がいる。「聞き上手な人」、ではなく特定の誰か。その特定の相手に、自分のことを受け入れてほしい、共感してほしい。理想は、何も言わなくてもそれを実現したい。でも何か言わないと始まらないから、自分の話をする。その上で、相手が自分の話を受け入れたり共感してくれると、自分そのものが受け入れられたり共感されたり、他者との一体感を感じたり安心を感じる。

「聞き上手な人」に、自分の話を聞いてほしいわけではない。不特定な「聞き上手な人」なんて求められていない。特定の相手に「聞き上手になってほしい」が真相ではないだろうか。だから僕が聞く姿勢を見せても「お前には話したくない」「お前に聞いてほしくない」「お前に話したところでなー」という態度をよくとられてきた。どちらかというと、自分の話をしたがらない人のほうが多い。あなたには知られたくないし、理解も共感もされたくない!キモい!と思っている人のほうが、多いと思う。少なくとも僕に対しては。

人に「聞き上手になれ」なんて、求めていいのだろうか。聞き上手な人の傾向として、分析しない、自分の意見を挟まない、などが挙がっていた。それでいてさらに、親身に聞いてくれる。ちゃんと聞いてるよ感を出してくる人。僕自身はそんな人に、一切何も話したいと思わない。人に話すときは、相手に意見を求めるから話す。自分の脳で足りない見識や回転を求めて。傾聴なんてされたら時間の無駄だと思ってしまう。予想の斜め上を行くリアクションを求めないなら、道端の地蔵や飛び出し坊やに向かって話しかけていればいい。めっちゃ傾聴してくれるぞ。

聞き上手な人が求められている役割は、壁打ちの壁役であって、人間ではない。壁役は人間として見られていない。自分の内心を吐き出して写し鏡となる物扱い。思考と感情を持つ、人格を否定されている。そういう自分にとって都合のいい物になってくれる人相手に、自分の話をしたいという人がどれだけいるのだろう。その願望は非人道的ではないか。横暴だ、対価が必要だ、対価が。

多くの場合、対価は支払われている。誰でもいい人は、誰でもいい関係を築く。特定の相手とは、特定の関係を築く。せめて双方向であるべきだと思う。一方的に「聞き上手な人」を求めていると、まともな相手は離れていく。まともじゃなくなった相手は壊れていき、まともじゃない相手は自分を飲み込んでくる。

僕の場合、特定の相手というのは奥さんになるんだけど、なぜ奥さんに話を聞いてもらおうとするか。それは、誤解されないため。奥さんに限ってではないけれど、自分の意図が伝わらないことが多く、誤ってひどい解釈をされ、人として見限られることが多々ある。どうでもいい相手はそれでよくても、大事な相手だと困る。だからいろいろ話すというか弁解というか、聞いてほしいということになる。加点したいのではなく、マイナス点をリカバーしたいからどうしても聞いてくれ、という必死な態度になってしまう。向こうからすればそれに付き合うのも労力で、お前の話なんか聞きたくないとなったら終わりだ。僕の場合は傾聴してほしいわけではなく、鬼気迫っている。それが重荷なのだ、きっと。