女性について

太宰治の「思ひ出」という短編に、太宰は幼い頃から情欲が強過ぎて、それを隠すのに必死だったというような箇所があった。僕にはその気持ちがすごくよく理解できた。

その學校は男と女の共學であつたが、それでも私は自分から女生徒に近づいたことなどなかつた。私は欲情がはげしいから、懸命にそれをおさへ、女にもたいへん臆病になつてゐた。

思ひ出

思ひ出

 

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全然違う話になるが、子供の頃、人の名前を記憶しすぎる傾向があった。例えばクラスメイトの姓名は全部覚えていた。一度見た、聞いた名前も大抵覚えていた。向こうは僕のことを知らないけれど、僕は相手の名前を暗記していた。そういうことが度々あり、すごく嫌だった。それらの相手に特別な感情は抱いてなかった。相手も子供だったから特別僕を気味悪がることもなかったが一人そういう意識に苛まれ、努めて名前を見ないようにした。見ると覚えてしまうから。意識しないように聞かないように、覚えないように頑張っていたら、いつしか必要な名前まで覚えられなくなった。歴史に出てくる偉人や、お客さん、仲のいい人まで。

それに似ているのだが、いまだに恋愛とか性交渉の話題にたじろぐ。あまり自分から話題にできず、乗っかることもできない。過去に、幼少期に強かった自分の性衝動の反動から、極めて保守的になった。それを今でも引きずっている。僕は告白したこともされたこともない。ナンパもしたことがない。基本的には誰かと付き合っていてもそれを公言しない。それにしても何故人はアプローチする時に見えないところでコソコソやるのだろう?からかわれたくないからか。出し抜きたいからか。

相手が誰であろうと、普段の何気ない動作であるとかそういう自分の身の回りを察知されることが嫌だった。自分が何を好きか、自分が何をやっているか、自分が何を考えているか、だいたいいつも周りの人にはボカしていた。明確な言動は、他人に明確な印象を植えつけてしまい、それが誤解の元になる。正確に伝わることはない。自分は嘘をつくのがすごく苦手で、弁解も下手だ。誤解を正すこともできず、誤った印象だけが一人歩きをして、自分は言われのない目に遭う。こういった意識が根強く残っている。両親の僕に対する誤解から始まり、その後世間で受けた誤解、全くの誤解、全然意図と外れた「それどっから出てきたの?」って驚くような誤解を渡り歩いているうちに、他人に自分の印象を形付けるような明確な言動は避けるようになった。

誤解を恐れずに言うと、という言葉がある。恐れずにいられなかった。明確な答えを避けた。自分という人間の明確な像を打ち出すことも避けた。だから僕を知る人はおそらく、僕に対してボヤけた印象しか持っていないと思う。普段は無口で一言も口をきかないと思えば突飛な事を言ったりやったり、何考えているかわからないという意味ではいささか狂気じみているところさへある。

全く知りもしない人と談笑をして、相手にも周りにも好意を持っているなんて思われたくなかった。それは全く事実ではなかったから、誰かと仲良くなるには相手にしか伝わらないように努めた。人目も避けた。一緒に街を歩くのも避けた。自尊心を傷つけられることを避けるのとはまた違うのだが、その違いが伝わるだろうか。飽くまで自尊心ではなく、誤解から生まれる自分が被るであろう損害から自分を守っていた。

強すぎる性衝動の反動でかえって臆病になり、誤解を恐れるためにあいまいで保守的な言動を務めているうちに、現実として性欲は薄くなった。年齢的な影響もあるかもしれないが、まだまだ現役の人はたくさんいる。3年とか平気でしない。誰とも。去年は3人としかしていない。今年はまだ一度もしていない。恋愛に関して言えば、今までの人生で一度として恋愛を望んだことはなかった。「人との良い関係」は常に望んだ。でもそれは恋愛関係ではなかった。

個人的な教訓としては、傷つくことを過度に恐れないこと。幼い頃から親に「繊細すぎる」と言われていた。毎日泣いていたように思う。泣きながら自分を守っていた。自己防衛の塊だった。その脆く崩れやすい精神を、恐怖や痛み、傷から守ることで必死だった。今思えば、過剰だったと思う。他人の誤解なんて気にしなければいいだけの話だ。幼児だったあの頃より多少強くなった今ならそう言える。

幼い頃の自分にアドバイスを送るとしたら、自分の気持ちに対してストレートに従えばいい。他人を気にするな。誰も君を理解しないし、君はずっと一人ぼっちだが、だったら何を恐れることがある?痛みを恐れていると自分がねじ曲がる。まっすぐな自分を保てなくなる。そもそも何故痛みを感じる?虐げられたから。傷めつけられたから。非難されたから。それは確かにつらいだろう。だんだんわからなくなってきた。自分を守ることも正しかったのかもしれない。なぜなら今まで自分を守れなかった人も見てきた。ありのまま自分を出すことしかできず、そのために壊れた人も見てきた。どちらがいいとは言えない。

いまだに好きなタイプは〜とかそういう話ができない。女の子と仲良くなりたいとか、今年の夏は〜とか、なんかそういうの全部無理だ。照れるからとかではない。本当は女の人を女の人扱いすることも自分の本意ではない。「女の子扱いして欲しい」なんて思っている人とはコミュニケーションが取れない。なんかそういう「人から優しく接してもらうのが当たり前」の人が落ち込むようなひどいことを言ったこともあったと思う。

ひとつ意外に思っていたことがある。男性といえば性欲のことしか頭にないと思っていた。女の人を女の人として見るということは、それすなわち性欲の対象として見ることであり、何をやっても全てソレへの道筋として繋がっており、女の人を女の人扱いすることに対して憎悪を持っていた。「買春、人身売買は全てこういった感情が根源なのではないか。これは社会悪だ。」そうまで考えていた。僕自身はどうしていたかというと、女の人にもなるべく男性を相手にするのと同じように振る舞うようにしていた。ただ向こうは男性ではなかったから上手くいかなかった。

自分と相性が良かったのは、自称「オトコっぽい女」だった。見た目や考え方ではなく「女社会で生きづらさを感じている女性」とか「オンナオンナした態度が嫌いな女性」とか、そういう女の人は世の中にたくさんいた。全ての女性が抱いている感情なのではないかとさえ思った。女の敵は女、を体現している。ちなみに男の敵も女。そして現に彼女らは紛れもなく女だった。男といた方が楽なだけの、身も心も思考回路も発想も完全に女。残念ながら僕はヘテロセクシャルだった。こういう言い方は悩みを抱える人たちには失礼かもしれないが、そうでなければもしかするとうまくいったのかもしれない。

後から知ったのは、実は男性も恋愛好きが多いってことだった。単にセックスをするだけの関係ではなく、ただ一緒にいたいとか、一緒にどこかへ行きたいとか、二人で何かのイベントに参加したいとか、そういうのを聞く度にクソを投げつけるゴリラの気分だったが、男性側がそれを望むと聞いて度肝を抜かれた。さらには「自分の子供がほしい」という男性が多いことにも驚いた。信じられないとさえ思った。

順番が逆ならわかる。彼女がいたら、一緒に何かをしたいと思うのは理解できる。しかし「彼女と一緒に何かをする」「その幸せそうな何か」のために、誰かわからない人と付き合いたいって発想は汚物処理場だと思っている。今でも。それと同じで「子供が欲しいから結婚したい」と言う人が、それも男性に多かったのはやはり驚いたのだ。結婚した相手と「この人の子が欲しいと思った。」ではないのだ。「初メニ子供有リキ」なのだ。まあなんだろう、動物として見ればそれは正しい。なんら間違ってはいない。動物は種を残すことが最優先であり、最初からそのために相手を探す。相手がすばらしいから種を宿すのではない。それは人間的なアプローチだ。同じか。