30歳で引退した

後は野となれ山となれ、えいやーっと引退したのは30歳だった。あれから4年、まだ生きてるなあ。

生きることはすなわち死と隣り合わせであり、生まれ落ちたはいいが何も持ち合わせていなかったため、死に向かう過程の餓えや貧困に伴う痛みという感覚を恐れて、ほどほどに勉強したり就職したり、いわゆる社会参加に勤しんできただけの30年であった。それは恐怖だけを動機としていたからか、心の何処かにどうでもいいという正直な気持ちを秘めていたせいか、結局うまく回らずに、引退という選択を余儀なくされた。反発があったのだろう。拒絶があったのだろう。かといって死に伴う恐怖に抗えるようになったわけではないが、生きるにあたって保証のようなものを求めるのことはあきらめた。やっぱり無理だなって。社会参加から引退した30歳。その後、やり残したことを消化した数年。それも終わった。今は特に、手元には何も残っていなくて、頭の中も空っぽだ。恐怖がないと言えば嘘になるが、真っ向から立ち向かう気力はない。もういつ死んでもいいし、いつ死ななくてもいい。どうでもいい。

特別お題「『選択』と『年齢』」

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その先に何があるのか

あまり考えてない。二手三手先を読むとか、将来を見据えての行動とか苦手だ。詰将棋とか考えるのもだるいと思ってしまう。その先にある利益なりなんなりを考えた上で現在の行動を決める人もいれば、その瞬間がただ楽しければいいっていう人もいる。アリとキリギリスは未来予測が不確かな現代において逆転しているなどとも言われるが、僕個人の話で言えば今の楽しみなんていうのもなかなか見いだせなくてどっちつかずと言うよりは、どちらも手にできないで歯がゆい。先にある不安を軽減するために苦労したって、その先に待っている物事はいずれにせよあまり大した違いがないように思えてくる。手にするまでわからないと言ってしまえばそのとおりなんだが、そのために頑張ろうなんていう気持ちは全く湧いてこなくて、ああ、いつもこんな話してるな。

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余分なお金と時間があったら

余分な時間とお金があったら何が欲しいか、何がしたいか、ちょっと真面目に(その発想自体真面目じゃないんだけど)考えてみる。そうしないとあまりにもつまんねーねんまつが毎日続いているような感じで、日常の中に喜びや楽しみを見出すってのはそれはそれで素晴らしいことだと思うんだけど、この歳にもなるともう何もかも新鮮味に欠けて、なんかこう希望のない生活というのは抜け殻みたいで張り合いがなく、やるせない、みるみる堕落していく現状だ。そんな欲望より目先の生活を立て直すことを真剣に考えないと、という発想もあるんだが(再就職とか)乗り気になれない。最終的にはどうでもいいやと思ってしまっているところがあって、いざすっからかんになって路頭に迷うまで何もしないというか、路頭に迷ってからも真面目に考えないことが容易に想像できる。真っ当に生きる道はあきらめた。遠い昔に。その時点である意味自分は死んだようなものだったから、その先はもう野垂れ死ぬまでてきとうに生きればいいやと思っており、まだかろうじて生きているならその間はそれなりに何かやらないと暇だなーと思っている次第であります。

さて、余分なお金はないんですが、あると仮定すれば自分は一体なにがしたいのか、どう使うのか、もう一度頭の中をおさらいしてみる。物は、持ち運ぶのが大変だからなるべく減らしたい。ロマたちは貴金属を身につけることで財産を持ち運びながらノマド生活を送っていたらしい。自分はクレジットカードも銀行口座もあるためそのへんは不要だろう。物を買うというのは基本的に無し。移動どころか保管も処分も費用がかかる。服やガジェットなんかも日常において必要な分以外はいらない。今のところMacとカメラで事足りている。本は安いし処分もしやすいからときどき買っているけれど、なるべくなら電子書籍で買いたい。電子書籍なら劣化しないし大量に持ち歩ける。紙の古本よりも電子書籍のほうが高いからあまり買えていない。「あればいい」という程度ならいくらでも欲しいものはある。新しいカメラ、スマートフォン、タブレット、でも今お金があったらそれらを買うかっていうと、買わないだろうな。会社員のときだってボーナスまるまる使わずに銀行口座に入れっぱなしだったぐらいだから。必要ないし、そこまでどうしても欲しいわけじゃない。10億ぐらいあったら買うかもしれない。

他に何かお金と時間を使うあてがあるかというと、本当に選択肢が少ない。人との交流にお金や時間をあてるのはそんなにおもしろくないし、勉強とかなおさらだるい。イベントやワークショップなんかに時間とお金を使う人は世の中にたくさんいるが、あーいうのが割りと信じられない。すごく損した気分になる。タダなら検討することもある。投資とか仕事とか、そっち方面に興味関心を持てたらよかったんだろうけど、いずれにせよ先立つお金を手にするほどの意欲が湧かない。やっぱりなんだかんだで旅行ぐらいしか思いつかない。ただ実際のところ旅行もかなり食傷気味だった。ここ5年ほどで行きたいところはあらかた行ってしまい、あとはそこそこお金のかかるところが残っている。誰かロシア行きの費用を持ってくれるなら全然行きます。旅費を稼ぐほどの意欲はない。そうは言いつつも日本に帰ってきてもうすぐ丸1年が経過しようとしており、さすがに旅行不足を感じて来月ちょっと近場に行ってくる。

残された時間と残り少ないお金、どう過ごせば自分にとって一番おもしろいんだろう。お金を稼いでまでやりたいことって本当に全然ない。過程の労力を突破できるほど、何かに興味や関心を持てたらいいんだけどな。ずっと恐怖心だけを原動力に今まで動いてきたから、そういうのはさすがにもう疲れた。

習慣について

習慣として日記を書く人がいる。web日記あれこれというよりも、紙の手帳や日記帳に書く人が多い。日記を書く人が、書くようになったきっかけは様々だ。誰かに言われて幼い頃から書いている人もいれば、日記帳を買ったのがきっかけで書き続けている人もいる。「なんで日記書くの?」と聞けばだいたい「習慣だから」と返ってくる。それは「特に意味はない」といった風の答えだ。しかし一度習慣が身についてしまった彼らは一様にして「毎日書かずにいられない」と答える。僕のように日記を書かない人間からすれば、この流れは全般的にわけがわからない。でも習慣っていうのはそういうものらしい。

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めんどくせえ

めんどくせえよーいろんなことがめんどくさくて何もしたくなくてしていない。いやー人と関わるのってめんどくさいっすね、マジめんどくさい、本当に関わりたくない、踏み込んだらお終いだ。どうでもいいことに関わったりするのは消耗するだけで無意味であり、距離を置くのが大切だ。シャットダウンしてしまうのが肝腎。関わらないのが大事。普通にしていれば見えてしまうし聞こえてしまうし、つい口を挟んでしまう。そういうの全部やらないほうがいい。俺には関係ない、と自分の領分をわきまえてしっかり気持ちを切り離すのが重要だ。そうしないと泥沼にずぶずぶと足を突っ込んでしまう。どうでもいいことに絡め取られてしまう。気づかないフリ、見てないフリをするのが大事だ。関わりたくねー。

こいつらは何で些細な問題をそのまま放っておくのだろう。些細な問題なんだから簡単に解決してしまえばいいものを、放ったらかしておくからわけのわからないことになっている。理解できない。ていうか何やってんのいったい。何もやってないんじゃないの。もっと大事なことがあるのか、誰も何も言わないし、全然見えてこないぞ。そのまま放っておいたら些細だった問題があとあと大問題になることが目に見えているのに、なんで誰も何もしないんだろう。自分の領分ではないと割り切っているからだろうか。ろくでもないわー。そのくせ怒り出すんだから始末に負えないわー。単純にバカなのかな。マジ関わりたくないわー。そういうのが大事じゃないって思ってるなら、そのままやればいい。それで困って大問題に発展すればいい。俺は知らんよー、見えて気づいても領分じゃないから。何で目に見えてる問題の対策を取らずに行き当たりばったりのその場しのぎを続けるんだろ。超簡単な話なのに。

理解に苦しむ。理解しようとしてはいけない。自分には関係ないんだ。自分は自分の領分だけをしっかり守ればいい。それ以上のことに関わってはいけない。口を出しては行けない。見えても見ないふり、知らないふり。俺には関係ない。それぞれの立場があり、やるべき人がいるんだから、自分で考えて勝手にやってくれたらいい。俺は知らん。人と関わるのめんどくさい。誰も何も言わないよなー何か言ったらもう負けだよなー俺ももう何も言わん。と言うか知らん。

そういうわけで24時間オフラインデーやります。ひたすら本を読もう。

海外を目指してるわけじゃない

人に会うと大抵「今何してるの?」と聞かれる。それに対して「何もしてない」と答えれば「これからどうするの?」と聞かれたりする。「どうもしない」と答えることも多いが、めんどくさいから「青年海外協力隊に応募している」と答えることもある。すると相手からは「また海外目指してるんだ」とか「やっぱり海外のほうが良かったんだ」と返ってくることが多い。人は何か質問をし、その答えについて自分なりに納得しようとするからしかたないんだけど、「また海外目指してるんだ」とか「やっぱり海外のほうが良かったんだ」と言われると、なんというか、そうでもない、って答えたくなる。そして実際そう答えると、なかなか話が噛み合わない。「どういうこと?」って。この微妙な感じが伝わらない。

「別に海外なんて目指してない」っていう答えは正しいだろうか。外国に対する感情を整理してみると

  • 行けたらいいけど行けなかったら仕方ない
  • どうしても日本から出たいわけじゃない
  • どちらかというと外国にいたい

この程度の心持ちだ。だからどこかの専制君主制の国の人たちや母国が貧しくてやっていけない国の人たちのように、外国に住むため血の滲むような努力をしようとはとてもじゃないけれど思わない。だから「海外を目指しているか」というと、それほどじゃない。なんとなく行けたらいいなあっていうぐらい。

それでは「やっぱり海外の方が良かったのか」というと、これもはっきり言って答えづらい。そりゃあ良かった部分もあればそうでない部分もある。トータルで見て日本より海外の方が良かったのか、そんなものは場所によるだろうし向こうで何やっているかにもよる。日本で働いているよりは海外旅行続けている方がいいに決まっているが、旅行はレジャーであり遊びだからお金もかかりずっと続けられるわけじゃない。海外で働きたいかって言うと、そういう願望もあまりない。

ではなぜ日本を出る機会を伺っているのかというと、一番妥当な回答は「日本にいてもしょうがない」から。だって日本は長く住んだし、大体知っている。これ以上日本にいたってつまんない。それよりは、まだ知らない土地に行ったり生活したりするほうがまだおもしろいだろうって思う。知ってることとか、予想できることとか、大差ないことに飽きている。だから知らないことや予想できないことを目の当たりにしたほうがおもしろいだろうって。

ただ実際は外国に出る機会なんて全然ないし、巡ってこない。青年海外協力隊も落ちたからしかたなく日本にいるという感じ。そしてあわよくばそういう機会に乗っかりたい、でもそのために頑張ったり努力するほどでもない、っていうところ。だってめんどくさいから。だから結局このままズルズルと日本にいて野垂れ死ぬんだろうな。

惚れるってすごく単純なことで

これは本当に、幼少期の頃から大して変わっていない単純なことで、なぜそうなのかっていうのは考えたこともないからよくわからないけれど、仕組みはわからずとも原因と結果ははっきりしている。

この歳になって惚れたっていう話でもない。ただまあ、なんというか久しぶりにそういう感覚を認識した。ああ、こういう感じだったなっていう。見た目は確かに美しかった。しかし今の世の中には見た目が美しい人など掃いて捨てるほどいる。その人の美しさというのは、無駄のない美しさだった。どこにも無駄がない。無駄な化粧、装い、飾り、無駄な肉さえない。顔の造形は目が大きいとか鼻が高いとか、唇が分厚いとか歯が出ているとか顎が出ているとか、サイズが大きいとか頬骨が出ているとか、これといった特徴は何もない。背は高くなく、低くもない。無駄な言葉もない。それどころか無駄な声量もない。無駄な音程もリズムもない。これはじつにめずらしいことで、なかなかに驚いた。僕はよく、ぼそぼそ何喋っているのかわからないと言われる。その人もすごく小さな声で話す。しかし、僕とは違いぎりぎり聞こえるぐらいの声量で話すから聞き返すことはない。言葉数が多くなく、少なくもない。こういうのを均整のとれた美しさと言うのだろうか。

見た目の印象は確かに大きかったが、それよりも心惹かれたのは人物の中身だった。数時間話しただけだから、印象はわかっても性格とかそういうのはよく知らない。では中身とは何かというと、経歴のことだ。まず第一に、アーティストである。弱いなーアーティストにはすごく弱い。憧れる。その人は美術品を造っている。作品を売って生活している。とてものめり込んでいたようで、あまりに多忙だったのを最近は少しおさえているそうだ。作品はとても美しい。その道のことはくわしくわからないが、何かこう手元に置きたくなる魅力がある。学生時代にその道に足を踏み入れてから長年修行され、技術を学ぶために留学もされていた。そしてアトリエに入り、今は独立され自宅で創作されている。

上手いことよりも、有名であることよりも、認められていることよりも、稼いでいることよりも、好きでやっている様子がすばらしい。人が何かに魅せられ、長い時間と労力、人生と魂をかけて取り組んでいる姿に何よりも魅力を感じる。実際に取り組む姿まで見たわけではないが、その道における造詣と経歴、姿勢と態度、そして作品からなんとなく伝わってくる。

人が何かに没頭する姿は総じて美しい。その期間が長ければ長いほど、その深度が深ければ深いほどに。誰かから好意を寄せてほしければ、小手先の技術で表面を磨くのではなく、自分自身が何かを好きになり芯から魅力的な人物になったほうがいいんじゃないか。たとえその好きな対象を理解されなくても、好きである姿そのものが輝いている。

一般人が個人で売る難しさ

お金がなくて困っている。働けって話なんだけど、働かないといけないなーと思いつつも、働きたくない思いでいっぱいだ。輪廻とは生きる苦しみの輪であり、仏教では輪廻から解脱することを目的としているが、僕は現世でお金の輪廻から逃れられずに苦しんでいる。お金がないと生活ができない。お金を稼いで、使って、という資本主義が生み出したお金の輪廻から逃れたいが、なかなかうまくいかない。

それはひとえに、自分が労働以外の形で経済的価値を生み出せないからだ。情報とかアイデアとか才能とか、なにか資産を投じることによって自分の生活圏ぐらいまかなえれば理想なんだけど、現実にそのようなことができる人は限られており、その限られた才能や徳を持ち合わせなかったり、めぐり合わせに上手く行き当たらなかったり、努力の使いみちを見いだせなければ労働するしかない。

かといってアフィリエイトに走ったり情報商材の手先になったり、サロンという名のもとに人をだまくらかしたりするのは生理的に受けつけない。信念にそぐわないというか、自分が良いと思うことしかできない。不器用を言い訳にしている。だったら普通に働くのと変わらないと思ってしまう。そもそも自分が会社を辞めたのは、そういう人を騙す商売と言うか、人間関係によって築かれた信用という名の良心につけこんで金を巻き上げる行為に嫌気がさしたからだった。たとえそうやって世の中が回っているとしても。

正直に生きたいと思っていた。自分に対しても周りに対しても、嘘をつきたくなかった。そういうのって結局十代の頃の夢みたいなものを捨てきれないでいる気持ちと同じなのかなーって思う。綺麗事ではやっていけない。生きるとはつまり、生き残ることであって、他人を蹴落として生き延びることだ。弱者を蹴落とす心の強さがなければ、強者から分け与えてもらうしかない。そのためには、余裕のある強者が生活の糧を分け与えてくれるだけの、見返りを提供しなければいけない。それがコンテンツとなる。

しかし、余裕のある強者が見返りとして生活の糧を分け与えてくれるほどのコンテンツを、弱者が提供できるだろうか。専門分野に特化していればできるかもしれない。徳があれば重宝されるかもしれない。そういうものを自分が持ち得ているかというと、思い当たらない。試す以前に、中身がすっからかんだ。提供できるコンテンツがない。自分という人間はありきたりで、中途半端で、資産価値はゼロだ。コンテンツどころか労働すら危ぶまれる。

通常であれば、資本や時間を投じて資産価値を身に着けなければならない。労働するにあたっても、コンテンツを築くにあたっても、世の中で求められていることと自分ができることを照らし合わせ、重なる部分を組み上げていくことで、自分の価値は高まる。そこで問題になってくるのは、自分の気持ちだ。つまり「やりたいこと」「やりたくないこと」。

多くの人がそうであるように、自分には「やりたいこと」がない。そして「やりたくないこと」はくさるほどある。ほとんどがそうだ。興味持ったことを「やりたいこと」として掲げても、その過程には無数の「やりたくないこと」が待ち構えている。自分にはその「興味を持った」程度のことよりも「やりたくないこと」のやりたくない度のほうが比重が高い。だから「やりたいこと」に繋がるような多くのことが、結局は「やりたくないこと」に転化されてしまう。

強者であれば「我慢すればいい」と思うだろう。「やりたいこと」に到達するまでひたすら「やりたくないこと」を無心に我慢し続け、たどりついたときの喜びを感じれば次の「やりたくないこと」も我慢できると。しかしそれができるのは、強者だからだ。途中で力尽きてしまうね。「やりたくないこと」を行う過程で、何らかの喜びを見い出せばいいとも思うだろう。え、それどうやるんすか。マジないんですけど。何かに夢中で取り組める人がただただうらやましい。

行き着く先は、結局生きるために働くことだ。「やりたいこと」もクソもない。「やりたくないこと」であろうが関係ない。家賃を払わなければならない、飯を食わなければならない、生きていかなければならない。ただそのためだけに身を粉にして働く。残業、休日出勤は当たり前、愛想を振りまいてお世辞を言い、笑いを取り、何を言われてもハイと答え、他人の失敗をかぶり、理不尽も受け入れ、怒られてもめげず、ときには嘘もつき、ときには人を出し抜き、クソおもしろくもないことをひたすらこなす。ただ生きるため、ただ生きるため、ただ生きるため。

そういうのに耐えられるのも一つの強者の形だ。ヤリガイを見いだすのも、物事を楽しむ才能と言える。家族を持ったりするのも同じ。稼いだお金を消費することで喜びを得られるのだったら、それさえも僕にとっては才能に見える。僕にはそういうことが全部、なにひとつなかった。持たざる者。自分は何もできない。なにか才能があったら、と思う。もっと頭がよかったら、と思う。もっと我慢できたら、と思う。もっと運がよかったら、と思う。もっと頭が悪かったら、と思う。大富豪や石油王のもとに生まれていたら、とは思わない。

世の中で話題になっていることについていけない。情報は得ても、何がいいのか理解できない。持て囃されていることに乗っかれない。興味を持たれていることに関心が持てない。マスとのズレを感じる。人の気持ちなんてわからない。でもおそらく、強者であれば自分がおもしろくないと思っていることでも、ウケるなら乗っかる。ずる賢い人がうらやましい。ずる賢いという言葉はけなす言葉ではない。生き残るという生物の掟においては、紛れもなく強者が持ち得る美徳だ。人間が大人になるということは、そういう生きる強さを備えることを指す。古来では、大人になる儀式をくぐり抜けられなかった人は死んでいく。自分は本来、そこで死んでいた人間だろう。

叔母の話

うちは祖父母も親戚もみんな京都で、歩いて行ける距離に住んでいる。だから子供の頃から親戚同士の交流が比較的多かった。盆には墓参りに一緒に行って、大文字を見たり、正月は毎年会ってお年玉をもらっていた。特に僕が幼いころは、叔父と父が一緒に仕事をしていたこともあり、毎月月末には叔父と祖父母の住む家で食事をしていた。その家は人がたくさん集う場所だった。僕は祖父母と同居していなかったけれど、そういう地方都市に特有のドメスティックな環境で育った。叔父の家に呼ばれると、僕はいつも5つ上のいとこの部屋に行ってマンガを読んだり話をしたり、おかしをもらっていたのを覚えている。誕生日にはよく、両親の代わりに叔母からプレゼントをもらっていた。うちの両親は「そういうのは持ち回りだから」と言って、叔母からもらった年には何もくれなかった。お年玉も両親からはもらったことがない。父親が叔父の会社から独立してからは、親戚とも会う機会が減った。それでも正月にはやはり、毎年会っていた。10年前に僕が京都を出てからも、正月に帰る年には会っていた。

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お酒と頭痛と人間関係

お酒を飲んで、ものすごく頭が痛くなった。グラス1杯のビールと、焼酎2杯しか飲んでいない。飲んでいるときは平気なんだけど、アルコールが酸素と混ざりアセトアルデヒドになる頃には頭痛をもよおす。具体的には外食をし1時間か2時間後、自宅へ戻った頃だった。まだ時間は早かったものの、既に頭が痛くてこのまま寝てしまおうと思い、ベッドに入った。そしてすみやかに眠った。

僕は何かと闘っていた。そして誰か知らない人に罵倒されていた。「あなたは最初優しくしておきながら、そうやってすぐつけ離してくる。ひどい人だ」僕はその言葉に対して反論を考えていた。「だって、例えば抱きしめられて、その力がどんどん強くなってくると引き剥がしたくなるだろ、それと同じだよ。君の力は既に強すぎるんだ」そう思いながら、僕は口に出すのをやめた。よく考えてみれば僕自身だって、別の人に対して同じようなことをしている。人との距離感をうまくとることができない。

目を覚ますと、額に汗をかいていた。頭痛は激しくなっていた。僕はベッドから起き上がり、毛糸の帽子をかぶった。部屋は寒く、頭が冷えたせいで頭痛が増している。寒い日の夜は、よく頭痛がする。そういうときに僕は、帽子をかぶって寝るようにしている。ナイトキャップをかぶって寝るという習慣が、なんのためにあるのかずっとわからなかったけれど、もしかしたら頭が冷えすぎるのはよくないからかもしれない。再びベッドに入る。頭痛は少しましになった気がするが、おさまる気配はない。もう一度寝ようとするが、額には脂汗がにじむ。そのうち吐き気をもよおして、トイレで吐いた。胃の中が空になると頭痛は少しおさまり、朝まで眠った。もう夢は見なかった。あの夢は頭の中で起こっていた具体的な痛みに連動していた。

頭痛の元になったのはお酒と寒さだったが、頭痛から連想されたあの夢の痛みは、自分の中にあった。自分と人との関わり方。誰かが自分の痛みの種になっており、自分も誰かの痛みの種になっている。それが頭痛という別の痛みによって思い起こされることもあれば、それ自身が頭痛の種になることもある。相手の痛みを知るにはどうすればいいだろう。相手が痛まないようにするには。自分の痛みを知らせるにはどうすればいいだろう。程よい力加減で、人と関わるには。冷静になるしかない。のめり込まないようにする。対象を分散させる。一人の人に対してではなく、別の物事や、別の人に対して分け与える。よく誰にでも優しい人は、一人の人に固執しないと言う。それは一つの対象に集中できないのか、もしくはこだわることに対する危険性、痛みが生じる可能性を知っているからかもしれない。

痛みを乗り越えてこそ、真の関係性が築けるという言葉もある。はたしてそれが、僕の頭痛にも当てはまるだろうか。少しずつ慣れていけば、その先に見えてくるものは確かにあるかもしれない。自分の懐も深まるだろう。しかし早急な痛みは、単に反動だけをまねく。その先には、もうこれ以上関わりたくないという拒絶さえ出てくるかもしれない。一つ一つの対象に対して、お互いの許容範囲をわきまえながら、冷静に、少しずつ距離を縮めていくのが正しい付き合い方なのだろう。

お題「最近見た夢」

ケチな私は何故ケチなのか

お金の話。お金に細かいというか、うるさいというか、ケチである。何かとお金に換算して物事を考えるし、割に合わないとか割安だとか割高だとかいう考え方が根底にある。金に汚い…のか?お金を出し惜しみはするものの、自分では金に汚いとは思っていない。というのも、僕がケチなのはお金が好きだからではなく、嫌いだからだ。普通ケチと言うと、お金が好きでお金を稼ぐことに最大限の関心を寄せ、稼いだお金を貯め込んで手放さない、というイメージがある。貯金が趣味だという友人は、飲み物は必ず持参する、昼は納豆とご飯だけ、通帳の残高を眺めるのが趣味で、働いて節約してときどき贅沢をして喜んでいる。彼女もケチだが、僕とは種類が違う。僕はお金が嫌いだから、稼いだり貯めたり使ったりすることに興味がない。

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人生においてのif

今週のお題「私のタラレバ」

普段こういうことはあまり考えない。不毛であると同時に、自分はifをあまり信じていない。人生において選択肢はないと考えているから「もし、あのときこうしていたら、ああしていたら」なんて思ったことはない。やり直したいと思うほどのことが人生になかったとも言える。このifというのはSFなどでよくタイムリープを扱うときのテーマになる。過去を振り返り、もしあのときこうしていれば、人生は別の方向に進んでいたかもしれない。そしてタイムリープで過去に戻り、人生の選択をやり直す。しかし、また別の問題に遭遇するというのがSFの定番だ。さて、そのような人生においてのif、「私のタラレバ」は何があるだろうか。

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社交性という名の仮面について

自分は極めて内向的な人間である。社交的ではない。それは能力の無さであり、同時に性格でもある。つまり、社交的であることを良しとしない性格。望むべくして内向的であるということ。「もし自分に社交性があれば」「社交的な人間になりたい」とは全く思わないという意味である。それどころか、社交的な人間をちょっと鬱陶しいとさえ思っているところがある。だから、社交的な人にはあまり惹かれない。内向的な人に惹かれ、自分もそうありたいと思っている。

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孤独感から逃れるには

なかなか恥ずかしいことが多くて、恥ずかしさを誤魔化すために婉曲的に。恥じ入ることの意味は一体なんだろうか。赤っ恥とは、公の場で間違うことだったり、醜態を晒すことを指す。つまり、オープンになることが恥のエッセンスと言える。ということはオープンになるかならないかだけの違いであり、その中身は同じだということだ。人に見られようが見られまいが実態そのものは変わらない。

  • 裸は恥ずかしいか
  • 人との違いが恥ずかしい理由
  • 社会のルールと逸脱
  • いつでも孤独を感じる
  • 何故人は孤独を感じるか
  • 何故孤独を解消できないのか
  • 精神を守るか、肉体を守るか
  • 僕たちが孤独感から逃れるには

裸は恥ずかしいか

例えば裸体が恥ずかしいとしよう。我々は風呂に入るときや着替えるとき、もしくは自室で裸体になる。人がいなければ恥ずかしくない。銭湯のように状況が許せば恥ずかしくない。つまり裸体そのものは恥ずかしくない。もし仮に、他人の目を気にしなければどうなるだろう。「裸体そのものは恥ずかしくない」という事実に「人の目を気にしない」という要素が加わると、「外で裸体になることも恥ずかしくない」という状況が生まれる。恥ずかしいという感覚はそれそのものではなく、人の目を気にすることと結びついている。

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日曜の昼にヘイトを書き連ねる

商業として成功したければ、感情に訴えかければいい。

理性への訴えが主ではなく、訴えは、大部分、オスカー・ワイルドが「知性より下のところを狙う」と名づけた方法によって進められています。 

ーE.H.カー「歴史とは何か」
本を読んでいる人が、頭が良く見えるとき - Letter from Kyoto

人を感動させることがビジネスになる。お金になる。だから成功したければ、基本として感情に訴えかけるのを忘れてはいけない。理屈やデータで組織は動かせても、個人は動かせない。

昔から言うだろう『技術の発展は戦争とエロによって起こる』って

seiyoku

その原則が性欲ビジネスにある。インターネットやアプリ業界、VRも生物の根源的な性欲を基盤に発展している。性欲を元に発展したビジネスは他に何があるだろうか。性欲に繋がるものは全てその派生した亜流と言える。ファッションとか、音楽とか、芸術とか

大事なのは中身ではない。雰囲気である。だから中身のない雰囲気商品が飛ぶように売れる。野菜の味よりも見た目が重視される。中身のない平和や戦争反対が支持される。売れたければ、雰囲気重視、なんとなく感情に訴えるものを作ればいい。それは理屈ではない。正解がない。過去を研究しても明日の答えは転がっていない。時としてわけのわからないものが当たり、時として同じことをやっても外れる。しかし、人間の感情には傾向がある。パターンを研究せよ。

人は事実や正論よりも、耳障りのいい言葉を求める

近年において消費者を感動させることに一番成功したのがアップルという会社だろう。そこにはスペックや数字では説明のしようがないハッタリと、かっこよさと、感動がある。アップルの成功商品はデザインとユーザーインターフェースである。アップル製品の設計は何よりも感情に訴えかける。その成功は理屈や数値では表せない。アップルは創業者の感覚で運営されていたみたいだが、通常の企業となると、消費者の感動を作るマシーンと化してしまう。そこに思想や情熱はない。技術と設計で感動を構築する。それはもはやビジネスモデルという名の金儲けマシーンである。消費者は感動にカネを払う。

結局アメリカにおいては、自分の経済的能力を評価するものは、消費者しかいないのである。消費者がどれだけ金を払おうとするか、ということしか評価基準がなくなってしまう。確かにそれがアメリカ資本主義を発展させる重要な契機になっている。しかし、この経済観念は一歩延長すれば、ユダヤ的資本主義のような別種のものへと移行してしまうだろう。モノづくり固有の卓越性の追求から消費者の満足の追求への移行は、禁欲的な労働倫理から利潤追求の精神への移行と対応している。

ー佐伯啓思「大転換」p138
資本主義の精神はどこへ行ったか - Letter from Kyoto

ビジネスで成功したければ感動を研究しなさい。性能や実用性ではなく、どうすれば心が動くか。本能に訴えかけることができるか。消費衝動を引き起こせるか。情熱はいらない、思想はいらない、魂はいらない、私情も余計だ。良いモノを作ろうとしなくていい。消費者の気持ちを考えて、人の感動データを研究して、カネを払わせるモデルを構築することだけが、あなたの仕事です。

消費者はバカじゃない?9割はバカです。世の中を見渡せばわかる。バカの感情に訴えかけるのが至上の命題です。このバカというのは知能が低いというよりも、むしろバカでしかいられないという意味を指す。自分の身の回りにある多種多様な事柄全てにおいて、誰がいちいち把握していられるだろうか。1割の人間だけがその分野に精通している。それ以外9割の人間はわざわざ頭を使っていられない、他の分野で1割に入るから、それ以外9割の分野についてはなんとなくやり過ごすしかない、全てにおいて1割の人間ではいられない。それがバカという意味。だから9割のバカ(=大衆=レイト・マジョリティ)に訴えかけるのが重要になってくる。

僕はそういう消費社会に打って出るのが嫌だ。誰かの願望を刺激したり、人が喜んだところで何も嬉しくない。お前ら全部不幸になれなんて全く思わないが、人がどう感じたり、どうなろうと僕には関係ない。だから、他人を喜ばせたりして金を巻き上げたりするのはだるい。知ったこっちゃねえよ、関わりたくねえよって思う。