恋愛だと思っていたら違ったらしい

自分にはやはり、恋愛感情というものが備わっていなかったらしい。幼い頃から「恋愛とかよくわからん」と言い続けてきたが、欠落しているからわかるわけがなかったんだ。図で書いてこういうものだと説明を受ければ理解することはできる。でもその形を内側に落とし込むことはできない。セックスの説明を聞いても、体験するまで実感が無いのと同じ。

だとすれば、過去に自分が経験してきたことも恋愛と呼べたのかどうか、あやしくなってきた。

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行動しない理由、行動へ導く手段

先日映画館へ「バーフバリ」を観に行った。その前に映画館へ行ったのは正月。映画自体はよく見ているつもりだったが、映画館へはめったに足を運ばない。見たい映画はたくさんあったが、映画館まで行くのがめんどくさい。「バーフバリ」も正月に見た「エンドレスポエトリー」も、人と一緒に行くという話になったから観に行った。そういう何か他のプラス要因がないと行く気にならない。自分にとって映画館で見るのはハードルが高い。

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12月には「ブレードランナー2049」を映画館で見た。これもずっと見たかったけれどめんどくさくて、上映期間終了間際に滑り込んだような形だ。これは一人で観に行った。「ブレードランナー2049」を一人で観に行ったのは、映画館で見るというハードルを越えるほど見たい映画だったから。

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同様に、DVDのレンタルなども行くのがめんどくさくて滅多に借りない。昔はよく借りていたが、最近は借りに行っても見たい映画がないことが多く、探すのも大変だ。結局はNetflixで手軽に見れるものばかり見ている。このNetflixも契約するまでハードルが高かった。なぜなら手続きがめんどくさいから。営利企業は日夜このハードルを取っ払う作業に苦心しているんだなーと思うと大変だ。プラス要因を築こうと思っても個別の嗜好性が強いため、全体としての効果を見込むのは難しい。

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このようにして「めんどくさい」という感情がハードルとして立ちふさがり、僕の行動を著しく阻害している。身の回りにあるものをとっとと売っぱらわないといけないのに、写真を撮ってネットに上げて、やりとりして梱包して郵送する作業がめんどくさいからやる気がしない。例えそれで物が整理できてお金がもらえたとしても、めんどくささに敵わない。よほどの大金というプラス要因があれば、容易にハードルを乗り越えるだろうけど。

さて、それでは行動的な人はどうなのか。あれこれ手を伸ばし足を運び、いわゆる easy going な人はなぜそうも簡単に行動できるのだろう。一つはハードルを感じないからだ。「めんどくさい」なんて思わない人。歩幅が大きかったり跳躍力が優れているため、段差やハードルを感じない人。そういう人は関心度の強さに関係なく、何に対しても割りと行動的だ。だってハードルを感じないんだから。フィジカルが優れているのだろう。もしくは環境が恵まれているか。僕も映画館の隣りに住んでいれば、もっと足を運んでいたかもしれない。

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もう一つは対象への関心が強い人。何にでも強く興味を持つ人は「めんどくさい」と感じにくいだろう。関心そのものが強いケースと、「めんどくさい」そのものが低すぎるケースがある。

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行動するためにはフィジカルという下駄を履くか、強い関心の対象を探すか、別のプラス要因でドーピングするかして「めんどくさい」というハードルを突破しなければならない。「めんどくさい」にまつわる損益計算は常に無意識下で行われており、差し引きで「めんどくさい」を上回ったケースのみ行動という結果が伴う。それを常に行動に至るように、理性でもって意識的に操作することも可能だろう。自分だけでなく、他人の操作も。

言ったことを覚えていない

最近人と話していて、ペットと子供の話だったと思う。僕は今までに一度もペットを飼ったことがなく、ましてや子供はいない。しかしなぜか、犬や猫、子供と仲良くなりやすい。動物や子供なんて誰とでも仲良くなるもんだろうと思っていたが、好かれない人は本当に好かれないようだ。僕はむしろ、人よりも子供やペットの方が仲良くなりやすい。人とは滅多に仲良くなれない。それは僕が人嫌いだとかそういう理由ではない。むしろ、僕は犬も猫も子供も好きじゃない。嫌いというわけではないが、何とも思わない(一時期動物嫌いを自称していたがそれは不潔だからという理由で存在が嫌いというわけではない)。可愛がったりあやしたりしない。子供や動物と話すときも、大人と話すときも同じ。多少砕けた感じにはなるが、話す中身もそんなに変わらない。動物と話ができるわけではなく、一方的に話しかけている変な人みたいになる。

まあとにかく、そういう話をしていたら

「それって前言ってたやつですか?対等に話すから友達になるっていう」

と言われた。前言ってたっけ?「前に言ったっけ?」と言った。

「3回ぐらいに分けて聞きましたよ」と言われた。全く記憶にない。と言うか今に始まったことではなく、自分が喋ったことを基本的に覚えてない。人が言ったことは多少覚えているが、自分が言ったことはほぼ全くと言っていいほど記憶にない。検索したら真っ先にうつ病の症状が出てきたが、そういうものではないと思う。人はそういう風にできているのだろうか?

多分、人間はどうでもいいことや興味ないことを忘れるようにできている。自分が人に話すことなんて基本的にどうでもいいし、興味ない。だから誰に何言ったかなんていちいち覚えていないだけだろう。「前にもその話聞きました」って多分言われるだろうから、枕詞のように「前に言ったかもしれないけど」と言うようになった。あまりよくないなあと思う。思い出す努力を放棄したみたいだ。脳の退化を促進させる。でも誰に何言ったかなんて本当に覚えてない。どう頑張っても記憶できるもんじゃない。そして同じ話を聞かされたらやはりつまらないだろう。だからなるべく自分の話は、聞かれなければしないほうがいい。聞かれてないってことは興味ないってことだから、興味持たれていない話をするのはただの迷惑でしかない。ブログは興味なければ読まなければいいだけなんだから、同じ話を何度もしてます。

絶望的に意欲がないという話

バケットリスト100というものがある。「死ぬまでにやりたい100のこと」という意味。なぜバケット(バケツ)なのかというと、ロープに首を引っ掛けるときに台にするバケツから来ている。首吊り自殺は準備が終わって、足元のバケツを蹴っ飛ばすことで完了する。

実はこのバケットリストを年初に書く機会があって、紙を渡された。しかし何一つ書けなかった。書くことがなかった。なぜなら自分はもうこの段階は終わっているから。つまりバケツをキックする段階にいる。いつキックするか、あとはそれだけ。じゃあ今の段階に来るまでにリストは書いていたのかというと書いていないが、ToDoにチェック入れるようなことはやってきたと思う。全て完了したわけではないけれど、やりたいことはそんなに残っていない。例えば木星に行きたいとか言ったって、あまり意味がない。そのための努力を惜しまないかといえば当然惜しむ。そんなに行きたいわけじゃない。中には木星に行くために本気で頑張る人だっているだろうけれど、僕はそうじゃない。絶望的に意欲がない。

もっと身近な例にしたって同じことになる。木星より身近、となれば月あたりか。月には行きたくないが、世の中には宇宙開発や宇宙飛行士になるため本気で取り組んでいる人がたくさんいる。僕はそうじゃない。もっと身近に、億万長者でもいい。金持ちになるため、必死で頑張っている人はたくさんいる。お金はあっても困らないけれど、努力してまでいらない。絶望的に意欲がない。もっと身近に、いい暮らしがしたいとか美味しいものが食べたいとかそういうのもない。社会的ステイタスがほしいとか結婚したいとか子供がほしいとか友達がほしいとか、それもない。いつでもバケツを蹴っ飛ばせる。

読みたい本や見たい映画はある。それだって、どうしてもというほどじゃない。手元にあったってなかなか消化できていないぐらい。その程度だ。やりたいことねーなー。バケットリストとまではいかなくとも、やりたいことリストを書いている人を見ると、よくまあそんなぽんぽんとやりたいことが浮かぶなーと思う。中には僕の「木星行きたい」程度のことや「映画みたい」ぐらいのことも含まれているかもしれないが、それだけで何十個も埋まらないだろう。

人のリストを見たところで、自分がやりたいと思うかというと全然。既にやっていることや、知らないこともたくさん書かれている。所詮人のリストだから自分とは関係ない。やりたいことねーなー。

同じようなことは既に何度も書いていた。

あの時間

感情から距離を置くには、慣れるのが手っ取り早い。もしくは対象を増やして行き場を分散すること。会社員の頃よく話していた人のことを思い出した。今はもう全く、連絡先すら知らないが、当時はよくメールのやりとりをしていて、飲みに行ったりもしていた。疎遠になったのは仲が悪くなったからではなく、自分が会社を辞めて遠くへ行って、接点を失ったから。そこからはもう時間も距離も空きすぎて、もはや会うことはないがたとえ会っても話すことがない。昔のことはほとんど忘れてしまっている。

今まで関わりのあった人たちは大体このように、遠い昔に途切れて関係性が失われてしまっている。友人は、仲が悪くならずとも時間とともに失うものだ。自分に限らず、プライベートですごく仲良かった人たちが、実質的な接点がなくなり関係性を失っている場面を見かけた。仲良かったと思っていたのに、こんなにもあっさりと簡単に途切れるもんなんだと、端から見ていて思った。子供の頃に引っ越して会えなくなったクラスメイトとは違い、大人だったら余程遠くへ離れていない限り、会おうと思えば会える。会いたくないわけでもない。ただきっかけを失うだけで関係性はもろく崩れ去る。

あってもなくてもよかった関係なのだろうか。たとえば、別の人間で代替できるような。先日言われたのは「今こうやって話す友人がいるんだから、過去の友人がいなくなってもいいじゃないですか」という言葉だった。そういう間柄は、中身のない関係と呼べるだろうか。誰が相手でも良かったというわけではなく、それなりの制約はあっただろう。一緒に過ごした中で、唯一無二のものも確かにあったかもしれない。けれど、それらが時間が経つに連れて忘れ去られるものであれば、始めからなくても良かったのではないか。人生の空いたピースを埋めるだけなら、それは自分のためだけのものでしかない。連結がない。できれば相手の空白を埋めるためだけのものであってほしくない。

だからなるべく覚えておきたい。もう既に失われてしまった関係でも、二度と戻らない時間でも、相手と、そのとき分かち合ったこと、感情、伝えたこと、伝えきれなかったこと、何を言っていたか、何を言おうとしていたのか。先日話した人は「自分は二度と戻らない時間を自覚的に生きている」と言っていた。僕は最初その言葉の意味がわからなかった。何気なく過ごしている時間を後から思い返して「あの時間はよかった」と思うのではなく、事実その時間に挑むときに「この時間は今しかないから大切にしたい」と思うそうだ。おそらく「今を大切にし、後悔しない選択をする、そして過去を振り返らない」という意味だろう。

何事においても、打算的であることにすごく抵抗があって、それはやはり利益に対しての毛嫌いからくるものだろう。差し引きで利益になるなんて計算はしたくない。ゼロであってもいいし、損ばかりしていてもいい。そこに自分がいて、あなたがいる。混ざり合う時間がある。思い出せるひとときがある。関係とはそれだけで十分に感じる。

定住より移動生活に憧れる

かつてノマドブームというものがあった。震災後の2011年頃だったと思う。当時はホリエモンも「出所後はノマドになりたい」と言って収監されたが、実際はならなかった。ノマドで名を馳せた人もたくさんいた。MGさんとかフォローしていたが、今頃はどこでどうしておられるのか、自分の記憶ではタイのチェンライを最後に消息を絶たれた(ネット上で)。

佐々木俊尚が5人の若者に聞く『21世紀の生き方』第1回「ノマド、シェア、そして家もいらないーー私たちはこんな生活をしています」(佐々木 俊尚) | 現代ビジネス | 講談社(1/7)

当時は世界一周ブームもあったかもしれない。世界各国を旅行して周りながら、仕事を続け収入を確保するデジタルノマドみたいなのが理想の生き方としてもてはやされた。憧れ、そうなりたいと思ったが、実際なれたのは限られた一部で、ほとんどの人はただの旅行者として終わった。もしくは仕事を探すために日本へ戻ったか、どこかへ定住して職についた。ノマド生活というのは実現の難しい夢として、儚く消えていった。

  • むしろやりやすくなった?ノマドライフ
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  • 理想の移動生活
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両親に感謝の気持ちなんて持ったことない

これを読んでいて思った。

まあ、なんだろ、両親に対して人として感謝したことはいくらでもある。でもここで言われているのは、親として、産んでくれてありがとう、育ててくれてありがとうって意味だよな。そういう感謝の気持ちは全くない。子を産むというのは親の選択であって、子の選択ではない。だから産んでくれてありがとうとは思わない。育ててくれたことに関しては、そりゃ義務だろと思う。人として当たり前だろって。産んだのに育てないのが責任放棄なだけであって、育てるのは普通だと思う。スティーヴ・ジョブズが里子に出されたとき、里親になる条件として「子供を大学に行かせること」だったらしいが、ジョブズが大学に行けたことについてはジョブズ本人も実の親も里親に感謝することはない。だって里親になるための条件だったんだから。

親の愛みたいなものは、それなりに受けて育ったほうだ。それでも上に貼ったようなことは一度もなかったし、もっと言えば生まれてきてよかったと思ったことがない。生まれたから仕方なく生きている感じはものすごくある。「死ねよ」って思われるかもしれないが、例えばポンと10万円もらったとして、わざわざ捨てないでしょ。「10万とかもらってもなー」と思いながらちびちび使うか、パーッと使うか、いずれにせよ使う。くれた人が「その10万は大事に使ってくれ」と言ったら、それなりに大事に使う。自分の命はその程度のものに思える。

生まれてから今まで一度もいいことがなかったという意味ではない。それなりにいいこともあっただろう。でも生まれてきたことそのものがよかったかと言えば、よくはなかった。生まれてしまったからには生きているが、仮に生まれるかどうか選べたとしたら、おそらく生まれなかった。理由はやっぱり、生きるのが大変だから。「そんな人生楽しい?」とか「何のために生きてるの?」とか色んな人からよく言われる。親からも言われてきた。そんな人生です。

芥川龍之介の河童という小説に、以下のような部分がある。

父親は電話でもかけるやうに母親の生殖器に口をつけ、「お前はこの世界へ生れて来るかどうか、よく考へた上で返事をしろ。」と大きな声で尋ねるのです。バツグもやはり膝をつきながら、何度も繰り返してかう言ひました。それからテエブルの上にあつた消毒用の水薬で嗽うがひをしました。すると細君の腹の中の子は多少気兼でもしてゐると見え、かう小声に返事をしました。

「僕は生れたくはありません。第一僕のお父さんの遺伝は精神病だけでも大へんです。その上僕は河童的存在を悪いと信じてゐますから。」

 バツグはこの返事を聞いた時、てれたやうに頭を掻いてゐました。が、そこにゐ合せた産婆は忽ち細君の生殖器へ太い硝子の管を突きこみ、何か液体を注射しました。すると細君はほつとしたやうに太い息を洩らしました。同時に又今まで大きかつた腹は水素瓦斯を抜いた風船のやうにへたへたと縮んでしまひました。

これを読んだのは確か高校生ぐらいの頃だったと思うけど、すごくいいなと思った。

「手が綺麗」と言われても

人の外見にはあまりこだわらないほうだと思う。以前にある人と映画の話をしていて、好きな女優はいないと言ったら

「好きな女性のタイプとかないんですか?」

と聞かれた。「それって見た目の話ですか」と聞いたらそうだと言われ、「外見なんてセックスできるかどうかの基準にしかならないからどうでもいい」と答えたら笑われた。

今まで付き合った人は、見た目もタイプもばらばらだった。顔、身長、体型、服装の系統など、見た目の好みがない。似合っていればいいと思う。胸の大きい人が好きとかそういうのに強いこだわりもない。外見は全部表層でしかない。内面が表に出ていることもあるけれど、それだったらやっぱり内面を直接ぶつけ合うことのほうが多かった。

なんでそんなに外見を重視しないのか考えてみたら、自分の外見が良くないからかもしれない。外見に対してコンプレックスを持っているとかそういうことはないけれど、自分の外見(雰囲気や言葉遣いや態度も含めた第一印象)を悪く言われたことしかなかった。人を見るときに外見をあまり見ていなかったから、自分の外見にもこだわらないのか。どっちが先というわけでもなく両方なのだろう。ただ僕自身は外見よりも中身がもっとひどくて、結果的にとった行動は「コミュニケーションを取らない」という方向だったが。

それはともかく、僕が今までに唯一褒められたことのある外見は、「手」だった。「手…?」という感じだ。手なんか褒められてもしょうがない。しかしこの「手がきれい」と言われるのは小学生の頃からずっと続いていて、男性から冗談で「手だけ貸してほしい」と言われたこともある。「手」にこだわるなんて、吉良吉影か。

実際「手フェチ」という言葉はあるが、「手さえ良ければいい」なんていう人には会ったことがない。「顔がタイプならいい」「背が高ければいい」「胸が大きければいい」という人はいるが、「手に欲情する」なんて話は聞いたことがない。いくら手を褒められたって、手がくっついている外見全体が重視され、手は所詮付属物でしかない。だから「手がきれい」なんて言われても「無理して褒めなくていいんですよ」としか思えない。なんで俺は「手」なんだ!

ここまで言っておきながら手を見せないのはどうかと思い、手の写真を探していたら以前にダニに噛まれたときのがあった。

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どこにいてもしっくりこない

今までいろいろな場にいたり、何かに属していたことがあるけれど、どこにいてもしっくりこない感じがずっと続いている。なんかそういう居場所を求めているようなことはないんだけど、こうもしっくりこないもんかね。場にそぐわない感じ、馴染めない感じ、これってなんなんだろう。自分以外がどうなのか知らないが、どこにいてもなんか違うなーってずっと思い続けている。考えていることが違うし、言っていることが違う。思想が違う。そういうもんなんだろうと思いつつも、こんなにもずっと違和感を抱き続けて生きていくのだろうか、とも思う。

もともと存在する団体や組織なんかに所属するときには、それなりの空気に合わせようとする。ある程度把握して合わせないことには、所属もままならない。しかしやはりそこには、心の底から乗っかれないことが多くて、中途半端に片足だけ踏み込んでいるようで居心地が悪い。そして違和感が大きくなるとやはり、耐え難くて抜け出してしまう。それがわかっているから、なるべくなら無駄な過程は省こうと、出来る限りは足を突っ込まないように心がけている。やる前からわかりきっていることを試みるなんてバカな真似をするのは、最初の何回かだけだろう。

そういうわけで、場であったりも自前で用意したほうがいいんじゃないかと思い、発起人になることも何度かあった。しかしそれはそれでうまくいかない。まず偏りすぎていて人が集まらない。もうちょっと範囲を広げたら、初めに想定していた場と全然違うものになってしまって、出来上がったものを見てなんじゃこりゃと思うことが多い。それでも責任を感じて違うなりに続けようとするが、自然に崩壊しますよね。それぞれ向いている方向が違うんだから。人が集う場合には、全部が全部は無理だけどある一定の理念なり目的を共有するところから始まるはずなのに、うまくいかない。見ているものが違う。

なんなんだろう、やっぱり各々の目的を第一優先して、場の共通項みたいなものはそこそこにとどめておけばいいのだろうか。つくづく共同体は難しい。本当に向いてないと思う。簡単に言えば、話が合わない。誰とも合わない。合わせようとするってことは、合わないっていうことだ。極めて薄い共通項があったとしても、その背景や根本があまりにも違うために表面的なやりとりにしかならない。違和感しか無い。だから会話としては、お互い違う者同士だと認識した上で探り合うほうが成り立つ。そういった会話はそれ以上の発展性がなく、前提からして異なっているため共同作業も何もない。

一人なんかな。一人なんだけど、求めるものが一致するってことは本当に全然全く無いんだなー。

ネガティブは治らない

一般的な見地ではなく、私的な感想として、ネガティブは治らないよなーと思う。主に生まれつきネガティブな自分を対象とするから、他の人に当てはまるかどうかは知らない。

  • ネガティブは生まれつき
  • ポジティブ信仰について
  • ポジティブ志向に対する敬遠
  • 治らなくていい
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人に興味はないでしょ

よく「もっと人に興味持ってください」って言われることがあって、最近も言われた。いや、興味ないでしょ。と言うか、人に興味持ってる人が僕は嫌だ。やたら人のことを気にしたり興味持ったりしているのは下世話でしかないと思っているから、極端なことを言えば「人に興味持つなんてキモい」とさえ思っている。だって、自分も人に興味持たれるの嫌でしょ。他人の興味の対象になったり、あれこれ詮索されたり干渉されたり、うっとうしいだけじゃないか。興味持たれたいなんていう人がいるんだろうか?なんで?人に興味持たれて何が嬉しいの?真面目に教えて欲しい。人のことなんてどうでもいいでしょ。なんで人に興味持つのか全くわからない。特定の誰かに興味持つっていうならまだわからんでもない。あの人があーいうこと言ってて面白いからとか、あれこれ知ってて興味あるとか、ただそれだって究極を言えば人なんてどうでもいい。人は器でしかない。中身に興味があるだけで、その人じゃなくたっていい。因果関係や仕組みに興味があるだけで、対象がたまたまその人だったっていうだけの話だ。人なんて地球上に70億人いる人間という生物でしかないんだから、その容れ物自体は大差ない。肝心なのは中身であって、興味を持つとしても中身の一要素に過ぎないから、その人自身に興味はない。人に興味持つなんて土台無理な話だ。「もっと人に興味持ってください」って言葉は一体なんなんだ。理解し難い。

変わった人が好きという話

ごく稀に「どういう人が好きなんですか?」と聞かれることがあって、そのときはいつも「変わってる人」と答える。恋愛うんぬんの話だけでなく、基本的に変わっている人が好きだ。格闘家では朝日昇が好きだったし、ミュージシャンでは向井秀徳が好きだった。二人に共通するのは"奇声"である(「奇声を発する人が好き」というわけではない)。

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どこにでもいる誰でもない自分

あー日記です。いつも個人的なことを書こうと思っているんだけど、頭がぼやけていて何も思い浮かばない。これは春頃から続いている。もう時間が止まっていて、自分とか他人とか世の中とかなんもない感じ。だから仕方なく読んだ本のこととか見た映画のことを書いている。そこにはいわゆる私がなくて、どっかに消えてしまった。中身のある言葉が浮かばないし、考えつかない。これはなんていう症状なんだろうね。

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