積極性、ポジティブ志向について思うこと

一見ポジティブ、実はネガティブ

僕はネガティブ崇拝者だったりするのですが、世の中で認められているネガティブというのは一見ネガティブだけど実はそうでもない、逆に一見ポジティブだけど本当はネガティブだ、みたいなのが多く、見た目も中身もネガティブというのは少ない。
太宰治なんかは典型的な例で、あまり知らないと暗い人代表みたいなイメージを描きがちだけど、実際は派手好きで人当たり良く宴会みたいなのにいつも参加していた。こういう人のことをトリックスターというらしいが、本人も自分をピエロだと本の中に書いている。 フランツ・カフカも社交的で人当たり良く、女の人によくモテた。周りの人の印象は誠実な側面が特に強調されており、そのあたりは遊んでばかりいた太宰治と異なる。

絶望名人カフカの人生論

絶望名人カフカの人生論

 

ポジティブとネガティブの両立

いづれにせよ、世に出る人というのは必ずそういったポジティブな一面を兼ね備えており、そういう偉人と比較しても仕方ないけれど、ネガティブなだけの人というのは日の目を見ないまま一生を終えるのではないかと思う。
しかし大成するなどということは考えずにしても、どんな形にせよ世に出ようというなら、偽りであってもポジティブな側面というのを備えなければならないような気がしてきた。むしろ彼らはそうすることによって、よりネガティブな側面をも深めていったのかもしれない。事実、太宰治にせよフランツ・カフカにせよ、好んでポジティブに振舞っていたというふうには、その著作からも書簡からも決して見られない。ネガティブのためのポジティブ、というのは新しい見方でもある。

ネガティブゆえのポジティブ

一般的にポジティブな人というのは、それがどこかから湧いてくるものでもなく自然みたいだ。背景をたどれば環境であるとか経験がどうだとか承認とかあるのかもしれないけれど、それを理解したところで自分が取り入れることは不可能である。
では、ネガティブな人のポジティブな一面というのは一体どういう理由で組み込まれているのだろうか。それは、どうやら強迫観念のようだ。特に、社会との関わりという面において、自分を守るための盾であり、恐怖からくる偽りの仮面であるようだ。しかもそれが徹底している。同時にポジティブな面に対する嫌悪感も徹底している。
僕がネガティブでありながらもポジティブな一面を持てない理由は、その矛盾にある。嫌悪感を抱きつつも、ポジティブな側面を徹底するなどということはとてもできない。結局のところ、恐怖感が足りていないということなのだろう。彼らが嫌悪と矛盾を抱えつつもそうせざるを得なかったのは、それ以上の強迫観念があったからだ。内面と外面とのギャップにより彼らの内面にあるネガティブはより深まったことだろう。それでもポジティブな面を徹底する姿勢は、それはまさに鬼気迫る態度であり、決死の覚悟であったようにも思える。ここまで書いてなんだけど、ネガポジというよりはオプティミスティック、ペシミスティックと言ったほうが合っているかもしれない。